第120話新たな軍制

文字数 3,260文字

 織田家が稲葉山城を包囲していたのと前後して、松平家が三河国の統一を成し遂げた。
 一部では不満を持つ者がいるが、無視しても構わない程度の勢力だった。
 家康の悲願が叶い、これでようやく国主としての面目が立ったのだ。

 松平家の三河国統一に最も貢献したと言われているのは成政である。
 市井では彼がいなければ数年遅れていただろうと噂されている。
 それはひとえに城下町の発展、つまり工場の建設や商家の誘致が目に見えた成果として民に評価されているからだ。

 はっきり言ってしまえば、民は自分たちの暮らしさえ保証されれば、自国の大名家が領土を広げようが、はたまた滅んで別の大名家に取って代わられようがあまり関係ないのだ。無論、税率の増減や大名家と近しい者という諸問題は除くが。

 成政が欲しかったのは民の人気である。
 城下町を発展させることで民の暮らしが良くなる。その結果として松平家や自分に感謝させることで団結が生まれるのだ。彼らは喜んで戦に協力することだろう。戦うこと以外に、商業を盛り立てる一助として。極論だが、一揆を起こさないだけでも助かるのだ。

 また民の人気を得ることで、成政が外様出身であっても松平家家臣として認められることになる。未だに家臣たちは成政のことを認めようとしないが、重要なのは家康と民である。もし成政を除こうと考えても、兵の中心である民が動かなければ意味がない。少し躊躇するだけで成政が助かる可能性も高くなる。

 要は自分の保身と家康の信頼、そしていずれ後方支援の要地となる三河国の整備のための策だったのだ。家康が竹千代と呼ばれていた頃から考え抜いた遠大かつ巨視的な内政策。それがようやく実りつつあった。

 そして成政は――次の一手を打つ。
 未来知識があるゆえのいかさまめいた策を講じたのだ。


◆◇◆◇


「こたびは三河国統一の祝いだが、その前に私から一つ話したいことがある」

 評定の間に集められた家臣一同。
 目の前には膳と盃が置かれている。
 今川家という目先の敵は滅んでいないが、一息つくのも必要だろうと家康が一席設けたのだ。

 家臣たちは唐突に言い出した家康の言葉を聞こうと口を閉じる。
 めでたい席だから何か苦労話や労いの言葉でも言ってくれるのかと誰もが思った。
 家康は「持ってまいれ」と小姓たちに命じて家臣たちに紙を配らせた。

「そこには名と役目が書かれている。来月からそのとおりに任じたい」

 書かれていたのは松平家の軍制である。
 誰がどの者の指示をあおげばいいのか、事細かに作られている。
 三河国の統一で活躍した者が主に取り立てられていた。

 家臣たちは息を飲んだ。
 自分の名が意外なところにあったからではない。
 成政が重職に就いていたからだ。

「殿……佐々殿が西三河衆の旗頭ですか?」

 大久保忠世が訊ねたのも無理はない。
 家康は三河国を西と東に分けて、東三河衆の旗頭、つまり最も上位に置いた者を酒井忠次、西三河衆は成政としたのだ。つまり筆頭家老の酒井と同格にしたのだ。

「ああ。成政は知っての通り織田家の家臣だった。だから西に位置する織田家との取次役として活躍してもらいたい」

 満面の笑みを浮かべる家康に家臣たちは顔を曇らせた。
 家康の成政びいきは目に余るものだと常日頃から彼らは思っていた。
 確かに工場による商業政策や三河三ヶ寺の件は大した手柄だ。
 だとしても譜代でもない家臣をそこまで優遇されたらたまったものではない。

「殿。恐れながら問題がございます」

 待ったをかけたのは酒井忠次だった。
 この人事に物を申せるのは彼しかいなかった。
 家康は困った顔で「問題があるのか?」と問う。

「佐々殿はご嫡男の竹千代様の教育係になられた身。加えて工場や財政を取り仕切っております。西三河衆の旗頭は大変かと思われます」

 真向かいに座っていた石川数正は上手いことを言うと内心思った。
 能力不足ではなく、許容量を超えていると言えば角が立たない。
 家康は「そなたの言うことも一理ある」と理解を示した。

「ならば成政に聞いてみよう。そなたは西三河衆の旗頭を重いと思うか?」

 これには酒井も大久保も何も言えない。
 成政が一言「問題ない」と言えば終わりである。
 成政の隣に座っている石川はちらりと彼を見た。

「ええ。酒井殿のおっしゃるとおり、私には荷が重すぎると思います」

 大方の予想を裏切ったことを成政は言った。
 ざわつく家臣たちを余所に、成政は「私は若輩者です」と答えた。

「家老の身さえ重いのですから。今与えられている職務をこなすのに精一杯です」
「そうか……では、いかがする?」
「私は辞退します。代わりに石川殿を西三河衆の旗頭へ任じてくだされ」

 家臣たちは驚いた。
 指名された石川は驚きのあまり口を開け閉めさせている。
 家康は「そうだな。それでいこう」とあっさりと決めた。

「元々、数正には補佐を命じようと考えていた。それを繰り上げただけだ。数正、良いな?」
「……ははっ。かしこまりました」

 石川は成政がどういうつもりなのかと思い、その顔を覗き込んだ。
 無表情のままで成政は「これでよろしいですかな?」と全員に確認を取った。
 家臣たちは何も言えなかった。

「殿。宴を始めましょう」
「いや。少し待て。それではそなたの役目が無い。無論、工場などの仕事はあるが」
「そうですね……この旗本先手役とはなんでしょうか?」

 成政が紙を見て注目したのは、本多忠勝などが所属している職務である。
 家康は「私直属の部隊だ」と答えた。

「護衛や逐次戦闘に投入するために作った。それがどうした?」
「私もそれに加えてもらえませんか?」

 忠勝が所属していることから、あまり身分が高くない者が選ばれている。
 家臣たちは風変わりなことだと思った。
 家康は「負担にはならないだろう」と頷いた。

「しかし家老が勤めるには軽い。だから旗本先手役の筆頭に任ずる。良いな?」
「かしこまりました」
「皆の者も異存あるまい」

 酒井は自身の提案が通ったこと。
 石川は自身が出世してしたこと。
 他の家老は二人が何も言わないことで口を噤んだ。。
 下の者も家老が何も言わないのであればと黙って賛同した。

「よし。これで決定だ。皆の者、盃を持て」

 家康が家臣たちに向けて高々と盃を掲げる。
 その表情は明るいものだった。

「三河国の統一を祝して――乾杯!」


◆◇◆◇


「上手くいったな、成政。あれならば文句は出まい」
「殿のお心遣い、感謝いたします。名演でしたぞ」

 宴が終わった後、成政は家康と二人きりで碁を打っていた。
 局面はどちらとも有利と言えない。

「そなたを先手役の筆頭に据えるとなると、反発される可能性があった。前線で戦うのだから、花形な役目だ」
「そこで敢えて、酒井殿と同じ地位にしておいて、それを辞退して――あいたたた」

 家康が絶妙な手を打ったので、思わず痛がる成政。
 碁はあまり得意ではなかった。

「ふふふ。そなたもうまく考えたものだな」
「人は自ら提案したことを取り下げません。また私が取り下げれば後の提案が通りやすくなります」
「孫子の教えにもなかった考えだ」
「いえいえ。『彼を知り己を知れば百戦危うからず』ですよ」
「短い間によくもまあ三河武士の性質を掴んだものだ」

 成政の苦し紛れの一手を余裕で受け流す家康。
 終局は近いなと成政は思った。

「それで、次は遠江国を攻略するのだが……」
「分かっております。武田、ですね?」
「そうだ。今川家は大したことはない。その後ろに控えている甲斐の虎が厄介だ」

 成政は少し考えてから、一手打つ。
 そして「会っておきたい者がおります」と告げる。

「今後の松平家に必要な者です」
「ほう。引き抜きか?」
「ご明察です」

 家康がとどめの一手を打つ。
 成政は「ありません」と言う。

「殿にはもう勝てませんね。誰に習ったんですか?」
「私の師である雪斎様だ。それと引き抜きの件は許可する」

 家康は成政に「そなたを信頼している」と笑いかけた。

「期待もしている。これからも励んでくれよ」
「承知いたしました」
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