第155話越後国へ

文字数 3,442文字

 浜松城の稽古場で、二人の男が大勢の人間に見られながら、試合を行なっていた。
 槍同士の試合である。二人の技量は凄まじく白熱した展開になっている。
 周りの人間も固唾を飲んで、真剣に試合の行方を観戦していた。

 やがて交差した槍が一方をすくい上げ、持ち主――成政から奪い取った。
 本多忠勝は素早く槍先を成政の首元に添えた。
 文句なしに忠勝の勝ちである。
 見ていた者から溜息とも似つかない驚きの声があがった。

「本多殿。やはりあなたは最強だな」

 両手を挙げて降参の仕草をする成政に対し、忠勝は目を伏せた。
 何故かやってはいけないことをしてしまった感覚に陥ってしまったからだ。
 そんな彼に成政は「何を落ち込んでいるんだ」と背中を強く叩いた。

「やっと目標だった私に勝てたのだろう? もっと喜べ」
「佐々殿。俺は……」
「す、凄いぞ、忠勝! お前、いつの間にこんな強くなりやがった!?」

 ざわついていた家臣の中から、榊原康政が出てきて忠勝を褒め称えた。
 信じられないという目をしている康政に「努力してきたからな」と成政は笑った。

「私と初めて戦ったときから研鑽を積んできた。その結果が実を結んだんだ」
「……佐々殿。俺はあなたに感謝したい」

 勝者である忠勝が膝をついて頭を下げた。
 康政は戸惑うものの、成政はなんとなく理由が分かっていた。

「ここまで強くなれたのは、あなたの指導のおかげだ」
「ふふ。今の忠勝殿に言われると、誉れに近いな」
「今後はもっと己を鍛えて、徳川家最強の名に相応しい男になる」

 成政はできることなら後進の指導をしてもらいたいと思っていた。
 だがまだ忠勝は強くなれると思い直す。

「ああ。目指してくれ」
「しかし、どうして佐々様は忠勝と戦ったんですか? 前のときの約束だってのは分かりますが」

 康政が不思議そうに訊ねると「こたびの主命で、私は死地に向かう」とあっさりと成政は言う。
 その重大さに忠勝も康政も何も言えなくなってしまった。

「その前に、忠勝殿の心残りを取っておきたくてね」
「わざと負けたわけではありませんよね?」
「康政殿。私はそこまで寛容な人間じゃないよ。それどころか負けず嫌いだから本気で戦った。それは忠勝殿自身がよく分かっているはずだ」

 忠勝は無言で頷いた。先ほどの試合での気迫や技量は成政が持ちうる最高のものだと、戦ったことで真実だと分かっていたからだ。

「それで、その死地とはどこですか?」

 康政の問いに「武田信玄の好敵手にして宿敵の本拠地さ」と真剣な顔で成政は応じた。

「越後国の春日山城――そこで私は命懸けの交渉を行なう」

 忠勝と康政は顔を見合わせた。
 確かに上杉謙信との交渉は命を懸けるに相応しい重要な主命だ。
 しかし少々大げさな気がする――忠勝と康政が交渉に関する経験が浅いことも起因する――上杉謙信は義を重んじる武将だ。いくら何でも交渉相手を殺したりしないだろう。
 二人の考えが手に取るように分かった成政は「よく分かっていないようだな」と首を振った。

「私は他家と交渉するときは、常に命を懸けているんだよ」

 何気なく発せられた言葉だったけど、若者二人にはかなりの重みが感じられた。
 その覚悟があるから、成政は数多の交渉や策を成功してきたのだ。
 槍では勝った忠勝だったが、本当の意味で成政を上回るのはできるのかと自問してしまう。

「さてと。これでやり残したことはないな」

 成政は誰に言うまでもなく呟いてその場から去った。
 忠勝は後を追うとするが、試合を見ていた家臣たちに囲まれてしまった。
 皆、素晴らしい試合をしてくれた忠勝を称えたかったのだ。

「佐々様、少し気負い過ぎているような気がするな」
「……ああ」

 おそらく、森可成の死が関係しているのだと二人は感じた。
 口にしなかったけど、可成の死が告げられた日、成政が酷く落ち込んでいた。
 織田家家臣のときの恩人らしいが、忠勝と康政はよく知らない。
 だけど、自分たちにとっての成政だと考えるとしっくりくる。

「黒羽組のこともあるし、生きて帰ってほしいな」

 康政の言葉に、忠勝は無言で頷いた。
 恩師に対する敬意が二人とも成政にあったのだ。


◆◇◆◇


 上杉謙信の居城である春日山城まで向かうには、たとえ成政でも簡単にはいかなかった。
 敵対している武田家、そしてそれに組している北条家の領土を通る必要があった。
 身分を薬屋と誤魔化し、様々な苦労を重ねながら、彼は越後国へ辿り着いた。

 しかし息をつく間もなく、成政は上杉謙信との会見に臨むことになった。
 本来ならば小休止してから城門を潜るところだったが、それは叶わなかった。
 その理由は――

「徳川家家老、佐々成政とお見受けします……」
「……何者だ?」

 嘘や誤魔化しが効かないのは、誰何したのが一人ではなく、複数の人間だったからだ。
 全部で五人。それも相当の達人で、成政ならば全員倒せるが傷を負ってしまうのは確実だった。それが春日山城の城下町の目抜き通りを歩いたときに現れたのだから――

「上杉家に仕える軒猿衆です」
「なっ――あの忍び集団のか?」

 成政が驚くのは無理もない。
 他国まで名を轟かす精鋭揃いの忍びの団体。
 それが自分の身分を知って、囲みに来ている。

「その軒猿衆が何の用だ?」
「……上杉家当主があなたをお呼びです」
「なに? あの上杉謙信公が既に把握していると?」

 軒猿衆と明かされたときよりも驚いた。
 自分が徳川家家老だから警戒されるのは分かる。
 しかしこうまで状況を把握されるとは――

「もし他にご用事があるのでしたら、ご遠慮しますが……これより大事な用なんてありはしないですよね?」
「…………」

 いやらしい言い方をする軒猿衆の男に対し、成政は黙って頷いた。
 こちらとしても、急を突かれたとはいえ、会談は望むところだったからだ。


◆◇◆◇


 通されたのは春日山城にある謁見の間だった。ずらりと六人、護衛のために座っている。
 上杉謙信を待つ間、出されたのは彼の愛した酒だった。
 それも盃に注がれたものではなく、酒瓶をそのまま置かれている。

 その剛毅さに面白味を感じる成政。
 肴も塩のみというところも、本物の酒飲みだなと思わせる。成政は酒瓶に口を付けて静かに飲む――やや強いが美味い。

「徳川家は田舎ゆえ、味噌以外の味を解さぬと聞きましたが、それは偽りのようですね」

 不意に奥の扉からそんな言葉とともに、僧侶の格好をした男が出てきた。法衣を着ていて、穏やかそうだと感じる。しかしながら、目の奥は鋭く、屏風に描かれた龍のようだ。

「あなたが――上杉謙信公ですね」
「ほう。よく分かりましたね」

 ひと目で看破した――わけではない。
 それ以外に考えられないほど、目の前の上杉謙信は凄まじかった。

「覇気と威厳が人間のものではない。それが分からなければ徳川家家老は務まらない」
「それは褒め言葉として受け取っておきましょう」

 上杉謙信はそのまま上座に座り、どかりと腰を落とした。傍らに刀を置いて「私にも酒を」と小姓に命じた。

 やがて運ばれてきた酒瓶を上杉謙信は一瞥し、一気に呷った。手慣れている、いや飲み慣れているのだろう。まるで水のようにごくごくと飲んでいる。

 成政はこんなに酒の強い人を見たことがなかった。信長は下戸で家康は嗜む程度だ。宴会のときは柴田が一番飲んでいたが、それでも限度がある。

「お酒、お好きなのですね」

 強いと表現しなかった成政。
 その心中を見抜いてか「好きこそものの上手なれ、ですね」と上杉謙信は笑った。

「他に好きなのは戦での勝利ですね。私は勝つのが好きなんです」
「それで軍神と呼ばれるほどになられるのは、凄まじいですね」
「……特にあの者との戦いは楽しいですね。武田信玄との戦は」

 上杉謙信から出た武田信玄の名。
 成政は間髪入れず「武田信玄に勝ちたいのなら、徳川家と手を組むのはいかがですか?」と提案した。

「南北で挟み撃ちする形になります。どうか同盟を結んでいただければ――」
「悪くない考えです」
「ならば――」
「信濃国は私が差配いたします。甲斐国は徳川家へ」

 先手を打たれた気分に成政はなった。火照った身体が嘘のように冷えていく。

「その条件ならば、受け入れると?」
「村上殿や小笠原殿のためです」

 その両名は武田信玄によって追い出された信濃国の大名だ。今は上杉家の庇護を受けている。
 成政は酒を飲み「かしこまりました」と頷く。

「天下に名を轟かす軍神、上杉謙信公を味方にするなら、一国は必要ですね」
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