第112話噓も方便

文字数 3,313文字

 岡崎城、評定の間。
 松平家家臣が一堂に会する場で、一つだけ空席があった。
 家老の佐々成政の席である。彼は欠席をしていた。

「あの外様、殿の招集だと言うのに――何故おらん!」
「前々から松平家を軽んじておる!」

 成政を目の仇にしている酒井忠次が口火を切ると、大久保忠世なども追従して悪し様に言う。実力だけ認めている石川数正でさえ、どうしようもない男だと思わざるを得なかった。

 松平家家臣は必ず登城すべし。その通達は三日前から皆の者に伝わっていた。評定の間が埋め尽くされるほど集まっていた。中には本多正信、服部正成、本多忠勝、榊原康政など成政と親しい者もいた。しかし彼らは成政を庇おうとはしなかった。康政は一体何をしているのだろうと心配していたが、ここで弁護すれば己が村八分にされてしまいそうな空気が漂っていた。

 また別の理由で評定の間の空気が悪かったのは、一向宗に関する問題が多発していたからだった。家臣の中には一向宗に組するものが少なからずいた。家康と一向宗、どちらを選ぶのか。板挟みにあっている最中で呼び出されたという事実は、悩んでいる者にとっては苦しく思うだろう。だから成政の悪口を言うことで一先ず自身の苦悩を誤魔化していたのだ。

 無論、一向宗を信じていない者でも慣れ親しんだ同輩が敵になるかもしれない疑いがある。本来なら信用したいが、それができない状況になっている。これもまた苦しい心境だった。

「皆の者、待たせたな」

 重苦しい空気の中、家康が上座に現れた。
 成政への悪口雑言をやめて、一同は平伏する。

「殿。我らを招集した理由はなんでしょうか?」

 酒井が代表して家康に訊ねると、彼は「さっそくだが、その方らに問いたいことがある」と威厳を込めて言う。

「私と一向宗。どちらに着く?」

 家臣たちが驚きのあまりざわめくのは無理もない。
 三河国が崩れてしまいそうな均衡であるのは、家康も十分承知のはずだ。
 それなのにどうしてあっさりと訊けるのだろうか?

「私は、できることならお主たちを失いたくない。三河国の統一のため、その先の目的のため、どうしても皆の力が必要なのだ」

 家康が話し出すと水を打ったように静まり返る評定の間。
 忠義だけではない。真摯に訴える言葉が松平家家臣の心を掴んでいる。

「だがしかし、教えを信じる者もいる。私はその者の信念を尊重したい。だから去りたい者は去っていい。敵方になってしまっても、生きてさえいれば分かり合える時もくるだろう」

 寛大な心を見せたのは悩む家臣のためなのは、誰でも分かってしまった。
 淡々と語っているが、家康は暗く重々しい顔になっている。

「私が正しいか、信じる教えが正しいか。それを決めるのはもはや戦しかない。できることなら、戦などしたくはない」

 実のところ、一向宗に着こうと考えている家臣はいた。
 しかし沈痛の思いで己の心情を語る家康を見て、主君を裏切る覚悟や決意が揺らいでしまった。誠意で家臣に接してくれる主君を間近で見て、裏切ることなどできるわけがない――

 そのとき、閉め切っていた評定の間の扉が開かれた。
 一斉に視線が集まる。

「――失礼。いささか遅れたようだな」

 そこには鎧具足を着た成政がいた。
 今にも戦に行くような恰好をしていて、皆は疑問に思う。
 成政はどこ行く風で無視して、自分の席に胡坐をかいた。

「……佐々殿。そのような出で立ちはいかがした?」

 石川数正が皆を代表して訊ねる。
 成政は「少々、片付けをしておりましてな」と飄々と答える。

「今しがた済んだところです。これより殿にご報告いたします」
「片付け? 意味が分からぬ……」

 成政は「聞けば分かります」と数正に言った。
 そして姿勢を正して、少し不安そうな家康に報告した。

「三河三ヶ寺、全て焼き払って参りました。これで一向宗は我らに手出しできませぬ」


◆◇◆◇


 評定の間に一同が集められた日から七日前。
 三河三ヶ寺――本證寺、勝鬘寺、上宮寺で小火が起きた。
 明らかに火付けだった。現場に残されたものや目撃した僧の証言から、松平家家臣が行なったと断定された。

 しかし寺の者は一揆を扇動し岡崎城へ攻め入ることはしなかった。というのも、火を点けた者は松平家家臣だったが、一向宗を信じる門徒でもあったのだ。事実を隠し通せれば良いが、一揆の最中に暴露されてしまったら自作自演行為だと思われ内部分裂してしまう。だから軽々に動くことができなかった。

 寺の者は松平家の策略だと疑った。つまり、門徒の家臣が火付けをしたと見せかけて、こちらに攻めさせて暴露し、一向宗の信望を地に落とすという考えだ。しかしその証拠がない。むしろ門徒がやった証拠がありすぎる。

 僧たちが頭を悩ませている中、小火が起きて二日後に各寺へ訪れたのは成政だった。外様とはいえ、松平家家老の訪問に各々の寺の者は度肝を抜かれた。すぐさま本堂に通された成政は住職と対面することとなった。

 三河三ヶ寺の中心となっていた本證寺の住職の空誓は、浄土真宗の中興の祖と謳われた蓮如上人の曾孫だ。その彼に成政は「この度は申し訳ないことをした」と頭を下げた。
 空誓は拍子抜けした気分で「どういうことでしょう?」と訊ねた。

「小火の件だが、これは松平家家臣が行なったことだ。愚かにもそれをきっかけとして一向宗との戦をするつもりだったのだ」
「なんと……」
「しかし殿も私も戦は望んでいない。むしろ一向宗との共存したいのだ。だから私が謝りに来たのだ」

 潔く謝罪されてしまったら責め立てようにも後味が悪い。
 仏の教えを守る者としてもできなかった。

「松平家の誠意、いたく伝わりました。けれど、このままお咎めなしというのは……」
「もちろん、承知の上です。我が殿から誓紙を預かってきました」

 成政が取り出したのは家康の花押が書かれた誓紙だった。
 空誓は慎重に受け取り目を通す。

「ふむ。謝罪と補償ですね」
「ええ。小火の件を深く詫びると共に『元に戻す』ことを誓った書状です」

 文面には確かに『責任を取って元に戻すことを誓う』と書かれていた。
 空誓は頷いて「私共としては異論ございません」と答えた。

「では、お手数ですが空誓殿も誓書を書いていただきたい。松平家の行なうことを認める旨を」
「良いでしょう。そちらのほうが互いに信用できますから」

 無償で寺が直るのならと空誓は誓書を取り交わした。無論、空誓だけではなく、勝鬘寺と上宮寺の住職も同様にした。

「作業は五日後に行ないます。当日は住職も含めて寺の外に出ていただきたい」
「寺の外ですと? 何故ですか?」
「大工の音が修行の妨げになるかもしれません。また外部の者と修行僧を会わせるのは、そちらにとっても良くないはず」
「それはそうですが、その間、私たちはどこにいれば良いのですか?」

 成政は「ご安心ください」と笑った。

「岡崎の町の宿を押さえております。宿の者はいませんのでご自由にお使いください」

 その後、細かい取り決めをして成政は僧たちを追い出すことに成功した。
 そして当日。
 油を撒いた板壁に火を点けたのは、成政自身であった。
 煌々と燃える寺を見ながら、成政は自分があくどいことをしているなと改めて感じた。
 元に戻すとは、寺ができる前の状態にするということだったのだ。


◆◇◆◇


「僧たちの身柄も押さえておりますが、いかがなさいますか?」
「解放してやれ。もはや何の力もないだろう」

 家康の命に「仰せのままに」と成政は承知した。
 一部始終、二人のやりとりを見ていた家臣一同は冷や汗をかいていた。
 特に石川数正は自分たちが集められた意味を理解していた。

 一向宗に味方しないように集められたのだ。
 成政の仕事が終わるまで拘束されていたのだ。

「き、貴様……そのようなことを……」

 慄きながら酒井が何とか言葉を紡ごうとする。
 成政は「嘘も方便と言いますが」と話し出す。

「方便は仏が用いるもの。すなわち仏も嘘をつくのならば、俗物たる私が嘘偽りを述べても罰は当たらないでしょう」

 酒井どころか、誰一人として言い返すことができなかった。
 成政は心底楽しそうに、あるいは悪そうに――微笑んでいたからだ。
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