第87話慰める兄と追い詰める妻

文字数 3,447文字

「助右衛門には――悪いことをしたな」

 前田家当主である利久は、無作法に胡坐をかいている不肖の弟の利家に苦笑して言った。
 利家は「やっぱり利久兄がけしかけたのか」と憮然としていた。

「あれには後で謝るとして、今日はお前に話があるんだ、利家」
「…………」
「こんな姿ですまないがな」

 利久は布団から上体をあげて、利家と話していた。
 しばらく見ないうちにだいぶ瘦せていて、文句を言おうとやってきた利家でも、そんな気が失せてしまうくらいやつれていた。

「気にすんなよ。それより、俺を呼んだ理由はなんだ?」
「お前の織田家復帰が叶わなかったことは既に聞いている。その上で、お前の気持ちを聞きたくてな」

 利久は穏やかな顔のまま、優し気な口調で弟に問う。

「利家。お前はまだ――諦めないのか?」

 対して、利家は即答した。

「ああ。絶対に諦めない」
「……そうだよな。昔からお前はそうだった。お前だけは変わらない。真っすぐな男だ」

 利久はそんな弟が羨ましいような、それでいて心配げな顔で見つめる。
 本当に愛おしく思っているのだろう。

「俺にできることがあれば、何でも言ってくれ」
「……それは、同情からか?」
「兄弟の誼だよ。いや、同情でもあるな。しかし、応援したい気持ちが占めている」
「食い扶持は自分で稼ぐし、そんなに構わなくていいぜ」
「遠慮するな。利玄も言っていただろうが、兄が弟を助けるのは当然だ」

 優しい言葉を投げかけられた利家は思わず拗ねて「なんだよ、その言いざま」と目を逸らした。

「親父の危篤を教えてくれなかったくせに」
「親父殿の身体が悪くなったのは、桶狭間のときなんだ」
「……それも聞いてねえ」
「聞かさなかったのは、お前が大戦に挑むと分かっていたからだ。きっとお前は参戦して手柄を立てて、前田家に復帰する――親父殿はそう信じていた」

 嫌われていたはずの父親に、期待されていたことを知らされて、利家は息を飲んだ。
 続けて利久は「親父殿も頑固な人だ」と寂しげに言う。

「容態が急変して、危篤になったとき――お前を呼ぼうって話になった。でも親父殿は許さなかった。いつ何時、美濃国の斉藤家との戦が始まるか分からないからと」
「俺がそこで手柄を立てるって、思っていたのか?」
「死の間際だったから、意識が混濁していた。現との境目が曖昧になっていたんだよ」

 利久は「それでも、お前のことを期待していたのは確かだよ」と彼にしては力強く断言した。

「お前が織田家に復帰して、前田家に戻ってくることを、誰よりも心待ちしていた。だから俺にお前のことを託したんだ」
「……親父」
「素直に頼ってくれ。頼む」

 利久はあくまでも穏やかに静かに利家を諭した。
 その心配りが分からない利家ではなかったけど。
 父に嫌われていたはずの自分が、実は期待をされていたことと、その期待に応えられなかったことで、頭の中に言いようのない懊悩が渦巻いて。

「……そうだな」

 平凡な返答しかできなかったのは、仕方のないことだった。

「親父の最期の言葉を、助左衛門から聞いているか?」
「ああ。利久兄に『馬鹿息子を頼む』とか言ったんだろう」
「本当はもう少しきちんとしている」

 利久は利家に「聞きたいか?」と訊ねる。
 しかし利家は首を横に振った。

「いいんだ。俺ぁ馬鹿息子だ。それ間違いねえ。だけど親父は見放さなかった。それだけでいい。それだけで十分なんだ。これからも強く生きていける」
「なんだ。苦手だったけど、嫌いじゃなかったんだな」
「わざわざ言うなよ。恥ずかしい」

 利家は腰を上げて「そろそろ行くわ」と言う。

「まつを待たせているしな。お袋のところにいるのか?」
「ああ。親父殿の部屋にいるはずだ」

 最後に利久は言う。

「線香をあげて、手を合わせてくれよ」
「……いいのか?」
「息子が父親の冥福を祈るのに文句を言う奴はいない」


◆◇◆◇


「どうしてあなたは、利家を襲ったのですか?」
「そ、それは、当主様の命令で……」
「当主様の命令なら、どのような悪逆非道な行ないもするのですか?」
「い、いえ、流石に……」
「では、利家を襲うことは、あなたにとって何でもないことだったのですか? 奥村助右衛門殿」

 利家が兄との会話を終わらせて、亡き父の部屋に入ると、奥村がまつに責めらていた。いや、なじられていたというのが正しい。両者は正座のままで話しているが、二人の雰囲気はまるで違う。

 まつは怒りを隠すことなく無表情で言葉を言い放つ。
 奥村は逃げ出したい気持ちを表しながら言葉を紡ぐ。
 利家はそんな二人に「待たせたな」と声をかけた。

「あ、利家! お義兄様とのお話は済みましたか?」
「おう。済んだ。ところで助右衛門と仲良く話していたようだが、どんな話を――」

 無論、二人きりではない。周りには前田家の侍女が三人いた。
 その三人が一様に背筋を凍らせる思いになったのは、まつが「仲良く、ですか?」と酷く冷えた声音で言ったからだ。

「仲良くなんて、話してませんよ」
「へっ? そうなのか?」
「助右衛門殿に、どうして利家を襲ったのか。説明を求めていました」

 すると奥村は真っ青な顔で「申し訳ございませんでした!」と土下座した。
 恐れを隠しているが、手の震えはどうにもならないらしい。
 半刻ほどまつの冷たい言葉でなじられていたのだから当然だった。

「もう二度と、利家様を襲ったりしません! ですから許してください!」
「お、おう。俺は別に――」
「助右衛門殿。利家が許しても、私は決して許しませんよ」

 まつが冷えた声音から一転、優し気な声に変わったのだが、その内容は処刑を宣告されたのと同じだった。
 反射的に顔を上げた奥村。
 まつは優しい表情で、優しい声音のまま、奥村と目を合わせる。

「ひたすらに、ただひたすらに。じわじわと真綿で首を締めるように、あなたを一生追い詰めます。私の大事な人を傷つけようとした罪と罰を受けなさい」
「あ、ああ……」

 奥村はこれでも同世代の人間の中では、度胸のある男だ。ゆえに常人なら意識を手放したほうがましな状況でも、気絶などできない。このときばかりは己の精神の強靭さを恨んでしまう。

「まつ。そんなこと言うなよ。許してやれって」
「良いのですか? 助右衛門殿は、利家を襲ったのですよ」
「俺が勝ったからいいんだ。生きているし、おかげで大事な話も聞けた」

 まつの頬を触って「だからそんな怖い顔するな」と諭した。
 しばらく黙っていたまつ。そして奥村に「利家が言うなら許します」と告げる。

「もしまた、利家を襲ったら――」
「二度としません! 絶対に!」

 顔を引きつらせながら必死に誓う奥村を見て、利家は不思議に思った。
 そんなに痛めつけた覚えはないのだが。

「あー、悪かったな、助右衛門。殴ったところが痛むのか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「そうだな。今度、家に来いよ。詫びの代わりに奢ってやるから。猪獲ってくるし。まつの手料理は最高なんだよ」

 奥村はまつのいる家に行くくらいなら死んだほうがましだと思ったが、利家の背後で『断ったら地獄に落とす』みたいな表情をしている彼女の顔を見て「ぜ、是非行かせてもらいます」と答えた。

「ならいいか。そんじゃ帰ろうぜ、まつ」
「はい……あ、幸をお義母様に預けたままでした」
「なら迎えに行こう」

 和やかにまつと会話する利家を見て、奥村はよほど鈍感か、物凄い大器の持ち主ではないかと考えた。そうでないと夫婦生活を続けられるわけがない。

 部屋を後にした利家とまつ。廊下を歩いていると「慶次郎様! お待ちください!」との声がした。その方向を向くと、傾いた姿の大男がどたどたとこちらにやってくる。

 着物は黄色と黒――虎を想起させる色合いのもの。それを乱れた感じで着こなしている。
 利家と同じくらいの背丈。いや、ひょっとすると利家よりも大きいかもしれない。
 額に前田家の家紋が入った鉢巻をしている。それから何故か長い朱槍を両肩に担いでいた。

 顔立ちは端正で優男にも見えれば、豪胆な男にも見える。しかしどこか女性的な雰囲気もある。老成しているようにも見えれば幼い顔つきにも見える。
 利家は前田家にこんな奴いたのかと怪訝に思った。

「あんたが前田利家、槍の又左だな?」

 よく通る声で大男は利家に訊ねる。しかし二人の距離は遠かったので、利家が「ああ、そうだ!」と声を張り上げた。

「お前は何者だ?」
「俺の名は、前田慶次郎利益だ」

 そしてそのまま、朱槍の切っ先を利家に向ける。

「いざ尋常に、勝負しようぜ」
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