第96話思案

文字数 3,057文字

 歴史が変わりつつあることを、成政は実感していた。
 気づいたのはつい最近だったのだが、彼の好敵手である利家が未だ浪人暮らしをしていることがおかしかった。清州同盟が結ばれたときには、既に再仕官できているはずだった。

 成政は自身が松平家家老となったことで、織田家との同盟が早めに結ばれたと考えた。そうであるならば、これは大きな変革だった。出来事が早めに訪れるということは、時代を動かしたと言ってもいいだろう。

 もしかしたら、自分の末路を大きく変えることができるかもしれない。
 無残な死に方ではなく、幸福な終わり方を迎えることができる。
 このまま未来知識を利用すれば――

「佐々様。工場についてですが、少し問題が起こりました」
「うん? 何が起きたのだ? 正信殿」

 岡崎城の一室で、仕事をしていた成政に、困った様子の本多正信が足を引きずりながらやってきた。成政は座布団を薦めて、話を聞く体勢になった。

 岡崎城の近郊に建てられた工場は全部で三つだった。
 当初は二つの予定だったのだが、予想を超えるほど人が集まったので、急遽増設したのだった。おかげで今井宗久から融資された二万貫は底を着きかけているが、先行投資だと成政は思っていた。

 成政は三つの工場を統括している。その下には奉行として正信が就いていた。彼は算術に明るく、成政の補佐としてよく働いてくれている。いや、彼以外では上手く回らないと言ったほうが正しい。三河国の武士は精強だが、こうした方面には明るくなかった。

「ええ。問題と言うのは作業全般ですね。仕事場に来ない者や、怠ける者が出てきております」
「そうだな……常に私たちが見守るわけにはいかない」

 生産量が芳しくないことは、成政にも分かっていた。
 主に百姓の次男以下の者が来ているのだが、必要な分だけの銭をもらうと、ある日突然来なくなったりする。それは彼らの親に命じられた農作業を優先しているからだ。田畑を受け継げないのだが、家に住ませてもらっている以上、従わなければならないのだろう。

 加えて支払う銭を時間制にしたせいで、怠ける者が出てきた。本来ならば量によって支払う金額を決めれば良いのだが、管理する側の人手が足らない。このままでは工場制手工業が立ち行かなくなってしまう。

「まあ、それは想定内だ。正信殿、あなたの目から見て、仕事に真面目な者を各工場から三人選んでくれ」
「それは、百姓からですか?」
「ああ。すぐに頼む。なるべく熱心に取り組んでいて、丁寧な仕事をする者だ。選別には時間かかるか?」
「三日ほどもらえれば。もしかして、百姓に管理させるつもりですか?」
「全て管理させるつもりはない。ただ怠ける者に注意することや、来なくなった者を記録することは重要だと思う。いわゆる組頭みたいなものだ」

 成政は要は中間管理職を作ろうとしている。そしてそれは、現場の人間を採用するほうがいい。工場を稼働させて二か月ほど経った今、ようやく次の段階に行けると彼は考えていた。

「それと、これからは時間制ではなく量で銭を支払うことにする。皆に伝えてくれ」
「初めからそうしなかったのは、組頭を見つけるためですか?」
「ご名答。これで怠けない者は信用できるからな」

 正信は「そういう目論見があったのですね」と笑った。
 彼は元々、時間制にすることに懐疑的であった。
 成政の前世では時間制は当たり前だが、戦国時代に合っていると言えばそうではない。法令遵守の精神など存在しないのだから。

 納得した正信が去った後、成政は一人で思案する。
 元康と信長に命じられた、武田家を滅ぼす方策を――


◆◇◆◇


 成政にしてみれば、武田家を滅ぼすことは必要なことだった。
 松平家に天下を取らせるためには、大きな領土が必要不可欠である。
 清州同盟の方針で、東国に勢力を伸ばすとなった今、まずは今川家の領土を獲るのが、基本戦略だ。しかし今川家と甲相駿三国同盟を結んでいる武田家と北条家はそれを許さないだろう。

 だが成政は武田家が今川家と手切れとなり、攻め入ることを知っていた。
 その後の顛末も分かっている。
 けれど、そうなれば松平家の領土を大きくするのに時間がかかってしまう。

 いずれ武田家のほうから同盟の打診が来るのは分かっている。
 そこで二つの道のどちらを選ぶかと言う話になるだろう。

 一つは同盟を結ぶ道。もう一つは同盟を結ばない道。
 成政は後者を選ぶつもりだった。

 彼の考えはこうだ。いずれ今川家と手切れとなる瞬間に、北条家を焚きつけて攻めさせるのだ。順序から言って松平家が三河国を支配下に収めた時点で、武田家は駿河国を攻める準備をすることになる。

 もちろん、北条家だけでは勝てないだろう。かの家は関東を手中に収めることを目的としており、今川家と同盟を結んでいるからと言って、武田家攻略に全力を注ぐということはしない。

 だから成政の次の一手として、手を結ばなければならないのは――越後国の大名、上杉家である。かの当主、上杉政虎はつい先頃、関東管領に就任した。普通に考えれば北条家と手を結ぶことはありえない。しかし別々に武田家に攻め入ることはできるはずだ。

 まとめると、成政がやらねばならないことは、三河国の統一、北条家に武田家を攻めさせる、上杉家と手を結んで武田家を攻めさせる、その隙に今川家の領土を獲る。
 かなり難しいと誰の目から見えても分かる。たとえ未来知識を持っている成政でも上手くいくとは思えなかった。

 だができないわけではない。清州同盟が早く結ばれたことを思えば、歴史を変えることは可能だと、成政は確信していた。だから最終的には今川家と武田家の領土を手中に収めることを目標とした。そのための策は考えている。

 ただ問題は、この策を主君である元康が採用するかだった。
 いくら何でも未来知識があることを言うわけにはいかない。
 だから説得力を持たせて説明しなくてはいけないのが、一番の難題である。

 それに松平家家臣とあまり親しくないのも問題だった。
 酒井や大久保などは成政のことを不俱戴天の仇のように思っている。
 少しは自分の派閥というものを持ったほうがいいのかもしれない。

 前世では人と関わるのが嫌だったから引きこもりになって、それが原因で自殺したというのに、今の人生では改善しなくてはならないとは、皮肉なものである。

「失礼します。佐々様にご報告がございます」

 成政の思考は、部屋の外からの声で中断された。
 少し間を開けて「入ってくれ」と命じると、武士の姿をした男が襖を開けて入ってきた。
 成政はその者が武士ではないと知っていた。

「それで、報告とはなんだ」
「織田家が斉藤家を攻めました。美濃国の森部の辺りで戦が始まります」

 男は成政が伊賀国で雇った忍びだった。
 諜報に長けている者で、するりと敵地に潜入することから鰻と呼ばれているらしい。

「そうか。すると今頃は戦が始まっているな」
「……引き続き織田家の動向を探りに行きます」

 鰻は一礼すると、速やかに退出した。
 きっと奴は何故、自分が織田家に潜入しているのか分かっていないだろう。成政も理由を説明していなかった。

 成政はいずれ起こるべきことに対し、備えていた。
 自虐したくなるほど、汚れ仕事をしているなと彼は思った。

「森部の戦いか。利家、正念場だぞ――」

 誰に言うまでもなく呟く成政。
 自分が正しい道を歩まなくても、利家だけは道を逸れてほしくない。
 身勝手だが、どこか誠実であるという矛盾な思いを成政は抱えていた。
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