第123話稲葉山城、改名

文字数 3,340文字

 織田家の者が小牧山城から稲葉山所へ移転となったのは、落城してからすぐのことである。信長の命令で主だった将やその家族は速やかに向かうこととなった。無論、彼らの家族は信長への人質となる。だから一刻も早く手元に置きたいという事情も孕んでいた。

 それらが済んだ後、信長は諸将を稲葉山城の評定の間へと招集した。皆は今回の稲葉山城攻略の論功行賞かと期待した。信長が上座に座り、皆が平伏した頭を上げると、さっそく「こたびの戦、ご苦労であった」と労いの言葉をかけた。

「これから褒賞を渡すのだが……その前に一つ、言わねばならぬことがある」

 武将たちがざわめく中、信長は「稲葉山城を改名しようと思う」と威厳を込めて言う。

「沢彦、入ってまいれ」

 この場にいた利家は、まさかあのじじいが来るとは思わなかったぜと内心思っていた。
 沢彦和尚は礼法に則った歩みで信長に近づき、高価そうな巻物を手渡した。

「そこの沢彦に考えさせた。では開くぞ」

 皆の緊張と期待が高まる中、信長は勢いよく巻物を開いた。
 書かれていたのは『岐阜』の二文字だった。

「沢彦、説明せよ!」
「かしこまりました。まずこれは『ぎふ』と読みます」

 利家はあのじじいが敬語使ってやがる。へへ、おもしれえやと少しにやけていた。それを隣の森可成が肘で突いて注意した。

「岐阜の岐とは大陸の王、周の文王が天下を治めんと挙兵した土地、岐山を表します。また阜とはかの孔子の生まれ故郷の曲阜を示します。つまり天下を太平にし、学問を盛り立てようという意味にございます」

 説明を終えた後、沢彦は利家を睨んだ。小僧、後で説教してやると目で言っていた。利家は悪かったよと目で謝った。

「うむ。素晴らしい命名だ! 沢彦、褒めて遣わす」

 信長が褒め称えると、沢彦は頭を下げてその場から去った。

「今後だがこれから岐阜城を中心に美濃国を発展させる。尾張国との関所を廃止し、両者の物流を良くしたい。同時に兵を鍛え戦に備える。以上だ」

 信長の簡潔な方針予定に皆は「ははっ!」と首肯した。

「ではこれより褒賞を与える。まずは佐久間信盛――」


◆◇◆◇


 論功行賞が終わった後、利家は沢彦の元を訪れていた。

「じじい、久しぶりだな。うん? 少し瘦せたか?」
「相変わらず、敬意を払うことを知らんのか!」
「おうおう、その怒鳴り声、懐かしいぜ」

 沢彦に宛がわれた岐阜城の一室にて、二人は和やかとは言えない会話をしていた。

「それで、何の用だ小僧」
「教えを説いてもらおうと思ってな」
「そうだな、まずは心にも思っていないことは言わないほうがいいぞ」
「ははは。お見通しかよ」
「不本意だが、お前とは長い付き合いだからな」

 利家は「ここだけの話なんだが」と沢彦にだけ聞こえるように言う。

「斉藤龍興、逃がしてしまったの俺なんだ」
「……まずは理由を聞こう」
「意外と立派な野郎だったから」
「ほう。お前にしては短くまとまっている言い訳ではないか」

 もちろん皮肉である。現に沢彦の額には血管が浮かんでいた。

「それで、わしに話してどうする気なんだ?」
「困ったことに、殿に知られてしまった」
「……わしにどうしてほしいと?」
「そりゃあ良い知恵がないかと相談したいんだよ。当たり前だろじじい」

 沢彦の浮かんでいる血管の数が増えていく。

「信長はお前に何と言った?」
「何にも言ってねえよ。ただ褒賞が無かったから、それで気づかれたって思った」
「素直に謝れ。それしか道はない」
「だよなあ。殿からこの後、呼び出されているし」

 もしかして切腹を申し付けられるのではないかと沢彦は心配したが、こんな無礼な奴を心配する義理はないと思い直して「一切を認めろ」と助言した。

「お前は誤魔化したりできない男だ。無理に取り繕うとするとぼろが出る」
「うーん、また追放かもしれねえなあ……」
「もうあの小屋は貸さんぞ」
「冷たいことを言うなよ。今度ばかりはじじいの寺で出家しようと思っているんだから」
「やめろ。わしの寿命を減らす気か?」

 利家は本気だったが、沢彦の顔も必死だったので「冗談だ」と手を挙げた。

「そんじゃ、行ってくるよ」
「精々、死なぬようにな。ま、信長のことだ。おそらく斜め上のことを言ってくるだろうよ」
「あり得るな……なんか怖くなった」
「何を今更言っておるのだ」

 利家は沢彦に別れを告げて、その場を去った。
 岐阜城の廊下を歩いていると柴田勝家とばったり会った。
 どこか覇気がないと思ったので利家は「柴田様。お疲れの様子ですね」と声をかけた。

「おお、利家か。実は美濃国攻略にあまり手柄を立てられなくてな」
「柴田様なら別の戦でも活躍できますよ」
「そうだと良いのだが……いや、そうであらねばならんな」

 柴田は無理やり元気を出して「これから稽古でもつけてやろうか?」と利家に言う。

「折角のお誘いですが、実は殿から呼び出されておりまして」
「殿が? 一体何の用だろうか……」
「俺もあまり手柄を立てられなかったので、その叱責かと」
「手柄と言えば、お前の友人である藤吉郎はだいぶ出世をしたな」

 利家は「ええ、自慢の友人です」と誇らしげに言う。
 柴田は「あの者、いずれわしを追い越すかもしれんな」と笑った。

「お前もそうだ、利家。もうすぐ、若者の時代が来ているな」
「柴田様もまだまだ現役じゃないんですか」
「お世辞など良い。老兵は去るのみという言葉がある」
「老兵は死なず、という言葉もありますよ」

 思いも寄らない利家の返しに柴田は「がっはっは! 言うではないか!」と大笑いした。

「足止めして悪かった。ではまたな」
「ええ、また会いましょう」


◆◇◆◇


「まつさん。利家の兄さん、まだかな?」
「……その問い、二十三回目ですよ」
「ひえええ、数えていたのかよ。怖いなあ」
「……ぁあ?」

 まつの顔が般若のようになる。
 慶次郎はどこ行く風で「助右衛門、腕相撲しようぜ」と恐怖で震えている竹馬の友に言う。

「い、いえ。あの、慶次郎殿。もう少し礼儀正しくしたほうが……」
「え、なんで? 利家の兄さんが自分の家のようにくつろいでくれって言ったぜ?」

 奥村助右衛門は極寒の目で見つめられているのを自覚しながら「限度がありますから……」と震え声で言う。

「だってよ。利家の兄さんと話でもしようってやってきたのに、いるのまつさんだけだから」
「……無礼な物言いだと思いませんか?」

 まつの聞いた者全て凍えさせる声に慶次郎は「まつさんのことを悪く言ったつもりはないぜ」と涼しげな顔で返す。奥村はどうしてこんな態度を取れるんだろうとある意味感心していた。

「ただ兄さんがいないと、まつさんからかえない……じゃなかった、面白くないから」
「け、慶次郎殿! 言い直した意味がありません!」
「え? もしかして、わざと私を怒らせていたんですか……? その反応を楽しんでいたんですか……?」

 まつは怒るというより呆然とした顔で慶次郎に詰問した。
 慶次郎のほうも「あ、やべ。ばれちゃった」とばつの悪い顔になった。

「だって、面白かったから」
「この――」
「け、慶次郎殿! すぐに謝ってください! 奥方様も落ち着いて、落ち着いて!」


◆◇◆◇


 自分の家で奥村が死にかけているとも知らず、利家は信長の前で平伏していた。
 信長は「一応、言っておく」と無表情のまま言う。

「織田家家中で俺の知らないことはほぼない。あるとすれば人の心に秘められたことだけだ」
「……では、俺のしたこともご存じなんですね」
「素直だな。ああ、お前が龍興を逃がしたことは知っている」

 利家は「処分は覚悟しております」と冷静に言う。

「いや。処分はしない。元々殺す気はなかった。それに龍興を生かしても何の影響はない」
「殺す気はなかった? だったら、俺のしたことは無意味だったんですね……」
「結果から言えばそうなるな。それでだ、実を言えばお前への褒美をどうするかと考えていたのだ」

 信長は悩まし気に「猿を引き立てた功績は大きい」と評価した。

「あやつは役に立つ。それを見抜いたお前の眼力は素晴らしい」
「あれは藤吉郎自身の実力ですよ」
「それに落城の功績も大きい。だからお前への褒美は――」

 信長は一拍矯めてから、利家に言った。

「前田家を継がせてやる。今、この瞬間からお前が当主だ」
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