第126話上洛と変化

文字数 3,177文字

「おのれ……! 許さぬ! 決して許さぬぞ!」

 血に濡れようとも構わず、成政は亡骸を抱いた。
 物言わぬ遺体。だが表情は苦痛に満ちていた。
 未練があったのだろう。それ以上に――死にたくなかったのだろう。

 成政もまた、己の手で殺めたくなかった。
 しかし、主君とかつての主君の命により、せざるを得なかった。

 こんなはずではなかった。
 今まで上手くやれていたはずなのに。
 どうして――

「殺してやる……呪ってやる……!」

 成政の顔は怒りと憎しみに彩られていた。
 当然だろう。子供のように可愛がっていた男を殺したのだから。
 その憎悪は命じた者だけではなく、天下を燃え尽くそうとしていた。

「絶対に許さぬ……信長ぁ!」


◆◇◆◇


 成政の慟哭より数年前。
 岐阜城にて、評定が行われていた。
 議題は浅井家と六角家への外交である。

 とは言っても、既に浅井家には信長の妹である、お市の方を嫁に出すことで同盟は結ばれており、六角家に最後通牒を送るだけとなっていた。

 織田家の次の目標は上洛である。
 そのきっかけとなったのは、新参者でありながら家老待遇で迎え入れられた――明智光秀だ。彼は主君の斉藤道三が息子の義龍に負けた後、各地を放浪し最終的に朝倉家に仕官した。その朝倉家に身を寄せた先の将軍の弟、覚慶を織田家に引き寄せたのだった。

「ふむ。では従わなければ滅ぼすしかあるまい」

 信長は皆に結論を告げて、次回の評定のときに細かい段取りを決めることとなった。
 皆がそれぞれ己の務めに向かおうとする中、参加していた利家が同じ侍大将の木下藤吉郎に「戦が始まるな」と神妙な顔で言う。

「ああ。あまり戦は好ましくない。しかし殿がおっしゃったように、従わなければ滅ぼすしかあるまいよ」
「分かっているさ。俺ぁ殿に従って槍を振るうだけだ。でもよ、上洛なんかして何の得があるんだ?」

 藤吉郎は「天下統一に近づくからだ」とほとんど反射的に言った。
 利家は「よく分からねえな」と首を振った。

「詳しく教えてくれよ」
「実を言うとそれがしも詳しくない。だから知っている者に話を聞こう」
「あん? 誰だそいつは?」

 藤吉郎は「時間はあるか?」と利家に問う。
 そして彼が頷いたのを見て快活に笑った。

「それがしの家臣で随一の軍師、竹中半兵衛重治に聞こう。あれほどの知恵者は他におらん」


◆◇◆◇


 徳川家の次の目標は遠江国である。
 成政は本格的に攻める前に、家康の妻の瀬名と話していた。

「ご実家を攻めることとなります。奥方様が何を言おうと、何をしようとも」
「覚悟はできております……しかし、やるせない気持ちで一杯です」

 部屋の中にいる瀬名に対して、成政は外の縁側で話を進めた。
 彼は瀬名の心を支えてやる必要があると感じていた。
 正直、家康は名君であるが、女性の機微に疎いところがあった。
 そこを補うのも自分の務めだと成政は感じていた。

「他の家臣は、私のことをなんと言っているのでしょうか?」
「回りくどい言い方は互いに好ましく思わないでしょうから、はっきりと申し上げます」

 成政は瀬名の顔を見ながら「奥方様を悪く言う家臣はおりません」と告げた。
 瀬名は目を丸くして「どうしてですか?」と訊ねた。

「むしろ同情的です。実家を攻められても、気丈に殿をお支えする姿に、武家の嫁はかくあれと思っております」
「……佐々殿のおかげですね。もしあなたがいなければ、私は嫌な女だったはずです」

 そんなことはない、と言えない成政。
 黙って瀬名の言葉を促す。

「今川家にこだわり、攻めることを反対し、殿を支えることを放棄していたはずです」
「…………」
「その運命を曲げてくれた――いえ、性根を真っすぐにしてもらった。感謝しております」

 未来知識を持っているがゆえに、人の道筋を曲げてしまった。
 いや、運命そのものを歪めてしまった。
 その自覚のある成政は、瀬名に対して――

「もし、変えてしまったのなら。私は奥方様にどう詫びればいいのか、分かりません」

 本音を吐露したのは罪悪感からだったが、同時にこれからもしていかねばならないという弱気な覚悟からでもあった。
 瀬名は不思議そうな顔をして、それから柔らかにほほ笑んだ。

「何をおっしゃっているのですか? 私は感謝しているのですよ」
「……しかし、人を変えてしまったのは」
「人は変わるものなのです。人との関わりによって」

 瀬名は立ち上がり、縁側まで出てきた。
 成政が姿勢を正そうとするのを手で制する。
 そして立ったまま、瀬名は庭を眺めながら言う。

「佐々殿が何を恐れているのか、まるで分かりません。人は季節よりも移ろい変わりやすいものなのです。少しの言葉が好意から憎悪に変わる。態度や気持ちでさえ、そうなるのです」
「ならば、変化を受け入れよと?」
「ええ。徳川家に嫁いで、今川家を攻められても、もはや心が痛まなくなったように。私は今、我慢はしておりません。身も心も、徳川家の者になったのですから」

 成政は――後悔している。
 自分が歴史を曲げていることに。
 おそらく今川家は思ったより早く、滅びてしまうだろう。
 結果として多くの者が亡くなるのか、それとも――

「佐々殿は、変わることではなく、変えることに恐れを抱いているのですか?」

 成政は答えない。
 沈黙を貫いている。

「もしそうならば――」

 瀬名は成政の肩に手を添えた。

「変えられた私が、幸せになることで、安心できますか?」

 成政は唾を飲み込んで、何かを言おうとして、何も言えないことに気づき、一礼してその場を去った。

 瀬名はその後姿を悲しげに見つめていた。
 成政のおかげで家康をもう一度愛することができた。
 息子を大事に思いやることができた。
 変えられたことで掴めた幸せがある。
 成政に伝わればいいと彼女は願った。


◆◇◆◇


「ごほん。上洛するとですね、御門や公家衆たちを抱き込めるだけではなくてですね、自国内の治安維持にも効果的だからですよ」

 青白い顔をした、幽鬼のようなひょろひょろとした男――竹中半兵衛。
 その真向かいに座る利家と藤吉郎。
 まるで沢彦のじじいのところの小坊主みたいだなと利家は思った。

「公家を抱き込めるのは分かるが、治安維持は分からん。むしろ大名が領地を離れるのは、それとかけ離れていないか?」
「殿。いい質問ですね。では答えましょう」

 竹中は「大名家には家臣以外にも、こほこほ、従っている勢力があります」と咳き込みながら言う。

「それが国人衆です。地侍とも言われて、一つずつの勢力は小さいですが、まとまって反乱を起こされたら不味いです」
「ああ。そうだな。いちいち人質を取るほどの勢力でもねえ。弱ったところを見せたら叛かれちまう」

 利家が納得すると藤吉郎が「つまり、国人衆を従わせるために上洛するのか?」と結論を急いだ。

「錦の御旗は十分に効力があります。上洛し、朝廷に認められたという実績は国人衆にも通用するのですよ。ごほん」
「なるほどなあ。だから殿は上洛したがっているのか」
「まあ、公方様の権威を利用して、外交や戦に使おうとも考えているのでしょう」

 藤吉郎は「勉強になった。流石、半兵衛だ」と手放しに褒めた。

「なあ藤吉郎。将軍の弟……覚慶様を将軍にすれば、織田家天下取れるのか?」
「そう単純な話ではあるまい。現に武田家や上杉家に贈り物をして、攻めてこないようにしている」

 藤吉郎は天を仰いで「一介の百姓の出には、途方もない話だ」と言う。

「尾張国を統一した頃には想像もできなかった話だ」
「まったくだぜ」

 利家は同意して、ふと好敵手のことを考える。
 あの野郎は徳川家に出向いて、どうしたいのかと。
 東に勢力を伸ばす理由はどこにあるのか?

「ま、俺は馬鹿だから分からねえけど」

 外の景色を見た。
 雲が一つしかない、快晴だった。
 とても雨が降るとは思えなかった――
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