第113話慶次郎は大物である

文字数 3,933文字

 小牧山城に建てられた前田利家の武家屋敷。
 その一室にて、利家はまつに膝枕されて、耳掃除をしてもらっていた。
 昼間からこうして過ごしているのは、藤吉郎が墨俣に城を築いたとき、援軍として駆け付けられるよう待機するためだった。

「利家。あの木下殿が墨俣に城を築けると思えますか?」
「できるだろ。俺には方法は分からねえけど、あいつ自信あったし」
「虚勢というわけではございませんか?」

 久しぶりの夫婦水入らずな時間で話すことは、まつにとって幸せなことだった。
 第二子を産んで小牧山城に引っ越しをして、利家が美濃国攻略で留守にしていたので、長い間会っていないように思えた。二人の子供たちは侍女に預けている。だから夫婦だけの大切なひと時だった。

「藤吉郎はできる男だ。機会があれば大きな仕事を成し遂げちまうよ」

 自慢するように語る夫に、まつは複雑な思いを抱いた。
 いつだったか、成政が言っていたことを思い出したからだ。

「利家。掃除終わりましたよ」
「ありがとな……もう少しいいか?」
「掃除し過ぎるのも良くありませんよ?」
「違う。膝枕だ。すげえ気持ちいい。眠っちまいそうだ」
「ふふふ。利家は甘えん坊ですね」
「いいじゃねえか。まつと二人きりなんて久方ぶりなんだ」

 利家も同じ気持ちだったと分かったまつは、今死んでもいいと思うくらい胸が高まった。鼓動が速くなり、顔が赤くなるのを止められない。

「利家。私――」

 幸せですと言おうとしたとき、庭先から「利家の兄さん!」と馬鹿でかい声がした。
 まつの眉間に皺が寄ったが、利家は「お、慶次郎だな」と嬉しそうに笑った。

「あいつと会うのも久しぶりだな。どれ――」
「良いではありませんか。あんなの無視して。不愉快ですし腹が立ちます」
「おおう? どうしたんだまつ?」

 まつは笑顔だったが、両手はきつく結ばれていた。
 人間、笑いながら拳を作ったりしない。余程腹が立たねば。

「せっかく二人だけの――」
「ここにいたのか! 上等な酒と肴、持ってきたぜ!」

 まつが仕切り直そうとしたのを見計らったように、慶次郎は二人がいる部屋の障子を開けた。相変わらずの派手な衣装を纏っている。
 利家はすっとまつの膝から頭を上げて「よう慶次郎!」と片手を挙げた。
 まつは舌打ちをした。

「元気そうで何よりだな」
「兄さんもな! まつさんも……どうした? 怖い顔して。腹でも痛いのか?」
「……痛くないとしたら、この顔にどんな意味があると思いますか?」

 まつの問いに慶次郎は腕組みをして考えて「じゃあ頭でも痛いのか?」と的外れな答えを出した。

「頭が痛いというより、頭痛の種が現れたと言ったほうが正確ですね」
「なんだ。頭痛ってたんぽぽみたいに種が飛ぶのか。知らなかったぜ。まつさんは物知りだなあ」
「……馬鹿にしているんですか、私を」
「してねえけど、質問に質問で返したのは、ちょっとおかしいなと思った」

 非常識な傾奇者におかしいと言われるほど屈辱は無い。
 まつは今にも怒鳴る寸前だったが、利家の前で醜態を晒すわけにはいかないと思いとどまった。

「おいおい慶次郎。俺の女のことをおかしいって言うんじゃねえ」
「あ、うん。悪かった」

 まつの怒りを鎮めたのは利家の飾らない言葉だった。
 うっとりしてしまったまつの隙を突くように「酒飲もうぜ」と酒瓶と肴であろう包みを置いた。利家が織田家に復帰してから慶次郎は気兼ねなく土産を持参するようになった。

「おー。こりゃ上物だな。早速飲もう。まつ、盃持ってきてくれ」
「利家は本当に、慶次郎殿に甘いですね」

 皮肉を言いつつ、まつは厨房へ向かう。
 盃を持ってくる途中、侍女が「奥方様、お客人です」とまつを呼び止めた。

「客人? 慶次郎殿のことなら知っております」
「いえ。木下様の奥方、ねね様が参られております」

 まつは「ねねが?」と自身の友人の名を聞き返した。
 侍女が頷くのを見て玄関のほうへ向かう。
 すると見知った姿のねねがそこにいた。

「ねね! どうしたのですか?」

 ねねはまつとそう歳は変わらない。すっきりとした顔立ちで、一重なのに目が大きくて美しい。猿顔の藤吉郎にはもったいないほどの器量の持ち主だった。

「ま、まつ……私、不安なの……」

 今にも泣きそう、というよりも泣いているねね。
 まつは近づいて「主命のこと?」と問う。

「うん……一人でいると怖くて」
「分かりました。どうぞお上がりなさい」

 ねねを伴って部屋に戻ると、何故か利家と慶次郎は腕相撲していた。
 慶次郎は懸命に力を込めるが、利家は余裕綽々で様子を窺っていた。

「お。ねね殿か。どうしたんだ?」

 ばたんと音を立てて慶次郎を負かした利家は歓迎する言葉を投げかけた。
 悔しそうな慶次郎を余所に、ねねは「旦那様、大丈夫かなって」と涙目のまま言う。

「あいつなら大丈夫だ。心配要らない」

 利家は立ち上がって座布団を取り、まつの隣に置いた。
 まつとねねが座ると「なあ。そこの人誰なんだ?」と慶次郎が訊ねた。

「俺の友人の木下藤吉郎の奥さんのねねだ。まつの友人でもある」
「へえ。まつさんと同じくらいか。俺、前田慶次郎。よろしくな」
「はあ。ねねでございます……」

 おそらく前田家の一族だと思ったねねは挨拶を返した。
 まつは「慶次郎殿。少し席を外してください」と言う。

「少し三人で話したいので」
「ええ? 俺だけのけ者かよ」
「……庭に蜜柑の木が植えてあります。好きなだけ取って食べてもいいですよ」

 まつは慶次郎が「そんなの要らねえよ」と言うだろうと思いつつ駄目元で言ってみた。
 しかし意外にも「蜜柑? へえ、美味しそうだな」と素直に立ち上がった。

「お土産に何個か貰ってもいいか?」
「構いませんよ」

 まつが許可すると手を擦りながら「へへ。実は大好物なんだ」とうきうきになって部屋を出て行った。
 三人だけになると「さっき言ったことは本当だぜ」と利家は言う。

「藤吉郎ならできる。だからこうして待機しているんだ。援軍をすぐに出せるようにな」
「……あの人は口だけは上手いのですが、戦働きとなると駄目なんです」

 藤吉郎を馬鹿にする感じではなく、深く心配している口調だった。
 ねねは本当に藤吉郎のことが好きなんだなと思う利家とまつ。

「すぐに調子に乗るから、はらはらします」
「だけど足元すくわれるところは見たことがない。あいつは心得ているし弁えているさ」
「前田様は旦那様を買っているようですね。どうして信じられるんですか?」
「ねね殿は信じていないのか?」

 ねねは「信じる、というより、よく知っているから不安なんです」と言う。

「あの人の性格を知っているから。今は無くてもいつか足元すくわれるかもしれません」
「先のことを考えてたら前に進めないぜ」

 利家はねねに「俺があいつを信じている理由はな」と語り出す。

「人の上に立つ器だと思うんだ。今は下働きしかしてないが、人を動かす立場になったら、あっという間に出世する」
「…………」
「俺はあいつが羨ましく思うときがあるよ」

 利家の言葉はねねだけではなく、まつでさえ疑ってしまうものだった。
 しかし目が真剣なので、本気で言っていることは分かった。

「そういえば、ねね殿はご飯食べているか?」
「あ、その。今日はまだ……」
「軽く何か食べたほうがいい。空腹は悪い考えを呼ぶって沢彦のじじいが言っていたし」

 利家は「ちょうど慶次郎が蜜柑採っている」と二人を促した。

「少し貰おうぜ」
「貰う……元々私たちの家の木なのですが」

 まつはそう言いつつ外へ通じる障子を開けた。
 目の前には蜜柑の木があるはずだ――と思ったら。

「あ。利家の兄さん。話済んだか?」

 蜜柑の皮だらけの庭。
 岩に腰を掛けて食休みしている慶次郎。
 そして一個も実がなっていない蜜柑の木――

「あ、あなた……全部食べたんですか!?」

 わなわなと震えるまつ。
 これには利家もねねもあんぐりと口を開ける。

「全部食べてねえよ。流石に食い切れなかったし。残りは土産用だ。そこに置いてある」

 指さすほうには大量の蜜柑が入った籠。
 怒りを抑え切れなくなっているまつに、慶次郎は続けて言った。

「あれ? 好きなだけ取っていいって言わなかったっけ?」
「……っ!?」
「助右衛門も喜ぶと思うぜ。ありがとう、まつさん!」

 ぶちっと血管が切れる音がした。
 利家は流石に不味いと思い「あー、慶次郎。今日はもう帰れ」と促した。

「えっ? なんで?」
「えっと、蜜柑、腐らねえうちに、ほら、助右衛門に渡さねえと」
「すぐには腐らねえと思うけど……」
「酒は取っておくし、今度は俺から出向くからさ」

 慶次郎は怪訝そうにしていたが「兄さんがそこまで言うのなら」と立ち上がって籠を背負った。

「そんじゃまたな」
「……助右衛門殿に伝言頼めますか?」

 地獄の鬼でも震え上がるような声。
 利家はすげえ怒っているなとぼんやり思った。

「おう。なんだ?」
「……蜜柑の感想、是非我が家に来て言ってください、と」

 慶次郎は快活に笑って「確かに伝えるよ」と応じた。それが自身の友人を絶望させるとは思ってもいないようだった。利家は静かに合掌した。

 慶次郎が去るとまつは利家とねねに「少し一人になります」と笑顔で言った。明らかに無理をしていた。

「ねねに手を出さないでくださいね」
「出さないけど、まつ……」

 利家が言い終わる前にまつは部屋から出てしまった。限界だったのだろう。
 ねねは「まつ、相当怒っていましたね」と利家に言う。

「一人になってどうするんでしょうか?」
「さあ……見たことないから分からねえ」

 結局、まつが戻ってきたのは数刻後だった。
 何をしていたのかと二人は思ったものの、訊くことはできなかった。
 触らぬ神に祟りなしである。
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