第7話相撲対決

文字数 3,246文字

 上半身の着物だけを脱ぎながら、同じ準備をしている内蔵助を見ている犬千代は思う。本音を言えば大嫌いだが、実力は認めなければならない。おそらく小姓の中で自分と同等の力を持っているのは、内蔵助だろう。

 無論、自分より強い奴はいないなどとは驕ってはいない。勝負は時の運で、新介や小平太も十分に強い。十本やれば三本取られてしまうだろう。しかし、負け越してしまうと思うのは内蔵助を除いて他にはいない。加えて彼は思った――若がいる前であの野郎には負けたくない!

 一方、自分の身体をほぐしながら、犬千代の様子を窺う内蔵助は考える。あの馬鹿みたいに図体だけはでかい馬鹿は大嫌いだ。だけどその身体から繰り出される怪力とその身体ゆえの腕の長さは脅威だ。

 しかし体格は不利でも組みさえすれば、こっちに分がある。腕力ならば拮抗していると思う。それに技術ならば上だ。その自信がある。しかし油断は大敵だ。初対面のときはそれで文字通り痛い目を見た。そこは反省しよう。重ねて彼は考えた――応援してくれた竹千代の前で無様を晒せるか!

出居(いでい)は誰がやりますか? 若様」

 出居とは勝負の判定をする者のことである。小平太に訊ねられた信長は「二人ならば微妙な判定になるまい」と皆で決めることとなった。立合(たちあわせ)、すなわち勝負の合図は信長が行なうことになった。

「さて。二人とも、準備は良いな?」

 犬千代は「おう! いけるぜ!」と元気一杯に応じた。
 内蔵助は「いつでもいけます!」と礼儀正しく応じた。
 それを見て、信長は広げた扇子を水平にし、二人の気合が高まった瞬間に上げる。開始の合図である。

「うおおおお!」
「おらあああ!」

 二人は気合が入った声を同時に上げ、中央でがっつりと組んだ。そして互いに投げ飛ばそうとしたが――

「お、おい。動かねえぞ……」
「あ、ああ……」

 新介と小平太の言っていることを補足すると、二人の力は拮抗していて、互いに投げることも押すことも敵わなかったのだ。信長の横で見ていた竹千代は「す、凄い……」と呟いた。

「ぐぐぐぐ……!」
「ぎぎぎぎ……!」

 両者から漏れるのはくぐもった声。組んでいるので表情は見えないが、同じように驚愕しているのは二人とも分かっていた。

 犬千代は己を奮い立てさせる。この野郎、やっぱり強いと思っていたが、まさかここまでとは……

 内蔵助は必死になって踏ん張る。こ、こいつ、馬鹿力持ってやがる。少しでも力を抜けば投げられてしまう!

「――おらぁあ!」

 犬千代がさらに力を入れる。じりじりと内蔵助が土俵際に追い込まれる。周りの小姓たちは大声を出す。これは犬千代の勝ちか?

「――舐めんな!」

 内蔵助も負けてはいない。土俵際まで来たものの、そこから一歩も引かない。渾身の力を振り絞って、粘り続ける。

「うぐぐぐ!」
「ぎぎぎぎ!」

 奥歯が割れそうなくらい、歯をかみ締める! 二人の白熱した勝負に周りも熱狂する! 騒いだせいで往来の者も足を止める! 中には小姓に混じって応援する者もいた!

「負けんな! 犬千代!」
「勝つんだ! 内蔵助!」

 両者を応援する声が城下町中に響く! この騒ぎになんだなんだとさらに人が集まる! しかし、二人は周りが見えていない! 頭にあるのは、目の前の野郎に勝つことのみ!

「うらああああ!」
「こんのおおお!」

 気合一発! 最終攻撃! 犬千代が内蔵助を投げ飛ばそうとする! しかし腰を落としてぴたっと止まった――と思った瞬間、二人の身体は大きく動いた! 内蔵助は反撃のため、犬千代は牽制のため、反対側に投げ飛ばそうとして、結果的に同じ方向に力が働いた!

 どたん! と音がして――二人とも同じ体勢のまま、同時に倒れてしまった。
 ――同体である。

 しーんと静まり返った小姓と野次馬。あまりに見事な勝負と意外な決着に言葉も出ない。

「こ、これって、引き分けだよな……?」
「取り直しでもするのか?」

 新介と小平太の呟きで、堰を切ったように喋り出す、試合を見ていた者たち。
 しかしどっちが勝ったのかは分からない。時間差などなかったように倒れたのだから。
 周囲がざわめく中、一歩前に出たのは二人の主君の信長である。
 両手を大きくあげて、皆を静まらせる。
 そして彼特有の大きな声で宣言した。

「この勝負は、引き分けである! 二人とも、よく戦った!」

 息を切らしながら倒れこんでいる犬千代と内蔵助の肩を叩いて大笑いする信長。
 周りの者は拍子抜けした気分だったが、城主の決定に物言いなどできない。ましてや彼ら自身、どっちが勝ったのか分からないのだから。

「犬千代! 内蔵助! 凄かったぞ!」
「ああ! 名勝負だった!」

 小姓たちから自然と健闘を讃える声があがる。二人は応じることもできないが、野次馬たちの声も混じり、勝負の最中の熱狂にも負けない、大声援となっていく。

 そのとき、竹千代は全身が震えていた。今の勝負を見ていたこともあったが、自身が握り締めている賭けをまとめた紙に書かれた、とんでもない予想のせいでもあった。

 そこには『引き分け、織田三郎信長』と一番下に大きく書かれていた。


◆◇◆◇


「はははは! お前たち、良い勝負だったぞ!」
「…………」
「……ありがたきお言葉」

 甘味屋でお汁粉を飲みながら信長が大喜びしている中、犬千代と内蔵助は不満げだった。体力は回復したもの、腑に落ちない気持ちで心が一杯だった。周りに囃し立てられたとはいえ、勝つと思って臨んだ勝負に引き分けるのはさっぱりしない。いっそ負けたほうがマシだったとどこかで思っていた。

 甘味屋には信長と犬千代と内蔵助、そして竹千代しかいない。小姓は数名、外で土俵の片付けをしている。残りの者は那古野城に帰らせた。

「俺はお前たちのような家臣を持って果報者だぞ!」

 珍しく饒舌に褒める信長。勝敗は予想していたが、その経過はまるで分からなかったので、楽しかったのだろう。竹千代も感動して何も言えないが、とても楽しかったのは同じである。

 犬千代と内蔵助。二人は性格の違う少年であったが、このときばかりは同じ気持ちだった。
 ――次は、絶対に負けない。

「若様! ああ、ここにいましたか!」

 二人が決意したとき、甘味屋に飛び込むように入ってきた者がいた。幼いが一本芯の通った顔つき。ぎょろ目が特徴的な信長と同年代の男だった。彼もまた、小姓の一人であった。

「勝三郎。どうしたそんなに慌てて」

 機嫌の良い信長はにっこりと微笑んで勝三郎――自身の乳兄弟である池田恒興の名を呼んだ。恒興は呼吸を落ち着かせて「皆と遊んでいる場合ではありません!」と言う。

「遊んでなどおらん。訓練を真面目にしている」
「お聞きください! お屋形様からご命令が下されました!」

 恒興は声を落として信長に告げた。

「今川家の軍勢が尾張国へ侵攻するとのこと!」
「……なんだと?」
「至急、お屋形様の居城、古渡城へと来るようにと!」

 信長は真剣な表情で立ち上がった。それから「内蔵助。竹千代を連れて那古野城へ戻れ」と命じた。

「犬千代は俺と一緒に来い」
「……かしこまりました」

 犬千代はこんな真剣な信長を見たことがなかった。
 まるで先ほどまで楽しそうだった様子が嘘だったみたいだと感じた。

「若様。こたびの戦、私たちの出番はあるのでしょうか?」

 いくら未来の知識があるといえ、名付けられていない戦や発端が分からない戦の詳細は分からない内蔵助は、信長に訊ねた。

「分からぬ。親父次第だな」

 そう言い残して甘味屋を出る信長。
 その後に犬千代と恒興は続いた。
 今川家との戦――信長の思考と意識が大きく変わる、大戦でもあった。
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