第92話夫婦の関係

文字数 3,381文字

「なるほど。そういう経緯で今井宗久から二万貫を借りたのか」
「ええ。しかし、かの者は投資と言っており、利息は取らないそうです」

 堺から戻ってきた成政は、岡崎城にて主君の松平元康に報告をしていた。
 周りには小姓しかいない。主だった将が同席してないのは、元康がそう望んだからだった。理由は分からないが、報告が終わった後、少し頼みごとがあると言っていた。

「その後、伊賀国の忍びと交渉し、忍び衆を雇い入れることにも成功しました」
「従属はできなかったのか?」
「ええ、目論見が外れました。お恥ずかしい限りです」

 頭を下げる成政に対し、元康は「気にすることは無い」と鷹揚に言う。

「むしろ忍び衆を雇えたことが驚きだ。伊賀国の忍びは特定の大名家に従わないし、雇うにも多くの銭が必要だ。それを何十人と安く雇えたのは――」

 そこで元康は言葉を切った。
 何か思いついたようで「もしや……」と呟く。

「まさか、初めからそれが狙いか? 従わせるつもりはなく、安く忍びを雇い入れるための方便だったのか!」
「ご推察のとおりです。しかしよくお分かりになりましたね。十二人いる評定衆の顔役、百地丹波殿にも見抜かれなかったのですが」
「信長殿や太原雪斎様に鍛えられたからな。私にも言わなかったのは、真意を悟られないようにするためか」

 黙っていたことを責めずに感心するところは、元康の器の大きさを表していた。
 成政は敢えて謝らずに「流石でございます」と褒め称えた。

「忍び衆は殿の護衛や諜報に使わせていただきます。他国の情報は値千金ですから」
「あい分かった。忍び衆の差配はそなたに任す。もし手が回らなかったらいつでも言ってくれ。半蔵に協力させる」

 成政は「ご配慮ありがとうございます」と平伏した。
 報告すべきことが終わったと見た元康は咳払いして「成政以外は下がれ」と小姓たちに命じた。

 小姓たちは顔を見合わせた。家老とはいえ少し前は敵対関係にあった佐々成政と二人きりにすることは、あまりにも危険だと彼らは思ったのだ。

「心配せずとも、私は何もしない」

 そんな彼らの心中を推し量った成政は笑みを見せた。
 安心させるつもりであったが、小姓たちはどこか不気味なものを感じた。
 少々不審に思いながらも、小姓たちは結局、主君の命令に従った。

「あまり信用されていないようですね」
「すまない。私が上手く説得できなかったばかりに」
「殿のせいではございません。むしろ苦労をおかけして申し訳なく思います」

 元康は苦笑して「相変わらず、謙虚だな」と言う。

「実はそなたに頼みたいことがある。しかしながら主命ではなく、私事であるから表立って言えぬのだ」
「私事、ですか? それを家臣の私に言ってもよろしいのですか?」

 少々恐縮した言い方になったのは、後ろめたい気持ちが若干あったからだ。
 元康と親しくしていたのは、自分が未来知識を知っているからという暗い理由が。

「何を言うか。何度も言うがそなたのことは兄のように慕っている。だからこそ、相談したいことがあるのだ」
「……承知しました。その内容とはどのようなものでしょうか?」

 元康は逡巡して、それから一気に言う。

「私の妻、瀬名のことだ」
「瀬名様……確か、今川家に人質になっていた方ですよね。しかし今は岡崎城にいらっしゃる」

 織田家と同盟を組むにあたって、松平家の人質は殺されてしまったが、瀬名とその子の竹千代は今川義元の縁戚であるため、処刑を免れたのだった。

「その瀬名なのだが……私のことを恨んでいる」
「織田家と手を組むからですか?」
「ああ。義元公の仇と同盟を組むとは何事かと怒り心頭に発している。どんなに諭しても言うこと聞かん。もうお手上げだ」

 成政は私事の内容が分かってきた。
 本音を言えば夫婦なのだからご両人で解決してほしい。
 しかしひどく困った顔をしている元康にそれは言えなかった。

「成政。どうか瀬名を説得してくれ。頼む」

 元康は手を合わせて頭を下げた。
 主君にそこまでされてしまったら頷くしかない。

「かしこまりました。お任せください」

 成政は前世も含めて、女性に関わっておらず、扱いには慣れていない。
 けれど、未来のことを考えると早めに対処するべきことだとも理解していた。


◆◇◆◇


「お初にお目にかかります。私は――」
「織田の者と話すことはありません。帰りなさい」

 瀬名とのお目通りは叶ったが、挨拶の途中で遮られ、しかも会話を拒絶され、そのまま帰るように言われてしまった成政。
 唖然としたが「では何故、私と会おうとしたのですか?」と訊ねる。

「話すことが無ければ会わなければ良いではありませんか」
「……殿が会うようにと頭を下げたので。仕方が無かったのです」

 夫婦の力関係が如実に分かるやりとりだった。
 周りの侍女たちも助け船を出さない。おそらく今川家にいたときからの者たちだったからだろう。

 成政は改めて瀬名を見る。
 黒目が大きく、面長で唇は薄い。透き通るような白い肌――病的に思えるほど真っ青と言ったほうが正しい。元康より二歳ほど年上だと聞いていたが、随分と幼く見えた。紫と赤の着物を上品に来ている。今川家は公家文化に明るいと聞いていたが、京の貴族の子女であると言われてもおかしくない。

「ですが、話せとは言われていません」
「そのような頓智をおっしゃられても……」
「そもそも、あなたは織田家の家臣だったと聞きます。それが何故、家老となり殿の傍に仕えているのか、理解できません」

 成政はとりあえず会話を続けようと思い「その経緯、気になりませんか?」と言う。

「私が殿……元康様と親しくしている理由を知りたくありませんか?」
「軽々しく殿の名を口に出さないでください……まあ興味がないと言えば噓になりますが」
「奥方様にお時間があれば、思い出話をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

 これには瀬名も言葉に詰まった。自分の夫の過去を知りたい欲求もある。そして別段、やるべきことがないので、時間がないことを言い訳にできない。
 もちろん、成政は元康から事前に瀬名について人となりや普段の生活を聞いていた。だから暇なのは知っていたのだ。

「つまらなかったら途中でやめてもらいますよ」
「ええ。そうはならないようにします」


◆◇◆◇


「そ、それで、元康様はどうされたんですか!?」
「私の名前のほうに、自らの名前を書いたのを見せてきたんです。そうしたら勝つしかないですよね。気合が増しましたよ」

 いつの間にか前のめりになって瀬名は話を聞いていた。
 成政も語り口に熱が入っていた。

「後から殿に聞いたのですが、その引き分けを予想していたのが、信長様だったのです」
「あのうつけが……元康様も驚いたでしょうね……」

 目を丸くする瀬名の表情が、町娘と同じに見えたので、成政は思わず噴き出した。
 瀬名は「何がおかしいのですか?」と不思議そうに訊ねる。

「いや。奥方もそのような表情をなさるのですね」
「あ……ぶ、無礼ですよ!」
「失礼しました。しかし、本当に殿のことが好きなのですね」

 成政が突然、気恥ずかしいことを言ってきたので、瀬名は目を丸くした。
 それから徐々に青白い肌が紅潮する。

「な、何を! 戯けたことを言わないでください!」
「私は真面目に言っています。そうでなければ、楽しそうに聞けない」

 瀬名は成政を睨みながら「私をからかっているのですか?」と言う。

「私は――」
「殿は決して、あなたを邪険に扱うつもりはありませんよ。今川家と戦うことになっても、今まで以上に大切にしてくれると思います」

 瀬名は息を飲んだ。
 成政はここだと思い「不安だったのですね」と指摘した。

「殿から見放されるのを恐れている。そうですね?」
「…………」
「殿もあなたのことを気にかけています。私がここにいることがその証拠です」

 成政は立ち上がって「今日はここでお暇します」と言う。

「殿の許しと奥方様のご要望があれば、また来ますよ。思い出話だけではなく、普段の愚痴も聞きます」
「……殿は、私を厄介な女と見ているのでしょうか?」

 漏れた本音を成政は「そのようなことはありませんよ」と優しく否定した。

「自分のことを好いてくれる女性を厄介に思う人なら、私は仕えたりしません」
「…………」
「不安に思うのなら、私が何度も否定します。だから安心してください」
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