第137話本圀寺の変

文字数 3,087文字

 将軍、足利義昭の仮の御所として選ばれた京の本圀寺――そこに数名の兵と共に籠っているのは利家と佐脇、そして毛利新介だった。主君である信長は岐阜城へ帰還していた。本来ならば親衛隊である赤母衣衆も随行するべきだったのだけれど、利家が信長に対し残ったほうがいいかもしれないと進言したのだ。

 特別な理由はない。
 単純に嫌な予感がする。
 そう素直に信長へと言ったら「であるか。ならば残っていい」とあっさり認められた。
 残した妻であるまつのことを思えば、少し罪悪感はあった。
 しかし利家の野性的な勘がそれを許さなかった。

「まさか、攻めてくるのか? それに誰が攻めるってんだ?」

 佐脇の呆れた物言いに、利家は「分からねえ」と短く答えた。
 それに援護するように新介は「殿は岐阜でここの兵は少ない」と付け加えた。

「つまり、ここは攻められるのに不十分な備えとも言えるな」
「前田殿にそれが分かっているとは思えないが」

 赤母衣衆の筆頭に言う言葉ではないけど、利家をよく知っている者からすれば、妥当な判断でもあった。
 利家は難しいことを考える頭を持っていない。それは自他共に認めることである。
 しかし、戦に関することならば、常人以上の勘を備えていた。
 頸取六兵衛を討ち取った際、戦場の状況を見て大将首に匹敵すると分かったように――

「とりあえず、俺は明智殿に会ってくる。気を抜いてていいぞ。どうせ俺の杞憂だ」

 利家が去ると佐脇は肩を竦めて「毛利殿があの人を信頼しているのがよく分かるよ」と笑った。
 新介は「殿と同じくらい、戦に関してならば信頼している」と自信満々に言う。

「あいつの勘はよく当たるんだ」
「殿からの援軍が遠いこの状況で当たられると困るんだが」
「あははは、まったくそうだ」

 明智は本圀寺の庭先にいた。利家は家老格の明智に対して「お時間よろしいですか」と話しかけた。明智は存外爽やかな笑顔で「これは前田殿」と会釈をした。

「是非聞きたいのですが――誰かがここを攻める可能性はありますか?」
「ない、とは言い切れませんね。あなたもそう思うから、残ったのでしょう?」

 諸国を旅して見聞を深めたという明智の言葉はどこか説得力があった。
 利家は「俺が分からないのは、いつ攻めてくるか、です」と言った。
 明智は池の鯉が泳いでいるのを眺めつつ「大雪が降る頃ですかね」と答えた。

「殿がここに来られない時期を狙います。私ならね」
「ということは……あと数日も無いか」
「うん? 雪が降るのが分かるんですか?」

 驚いたように明智が利家を見る。
 天候を読めるほどの見識があるとは思えなかったからだ。

「織田家から離れていたとき、猟師の真似事をしていましてね。そのときの仲間に雨が降るかどうかを教えてもらいました。空気が冷やりと湿っているときは、たいがい降ります」

 明智は自分でも感じようとするが、分からなかった。
 案外、繊細な感覚を持っているのだと明智は利家を評価した。

「雨が降ると鉄砲が使えなくなりますから。大変ですね」

 利家が明智の得意な鉄砲のことを言うと、彼はにこやかに笑った。

「戦が始まるときは止んでいると思いますよ」
「えっ? そうなんですか?」
「敵も雨や雪のうちは攻めてこないでしょう。向こうも鉄砲や火矢が使えませんから」

 改めて賢いなと思いつつ、一番は攻めてこないことだなと利家は内心思っていた。
 しかし、どうしても軍勢が来る予感が拭えなかった――


◆◇◆◇


 三好三人衆の軍勢が本圀寺に攻めてきたのは、三が日の過ぎた一月四日のことである。
 利家は己の勘が当たった喜びよりも大変なことになったと感じた。
 三好三人衆の軍勢は一万らしく、本圀寺や周辺の兵をかき集めても二千足らずだった。

「本圀寺に籠城します。京の外への退路は既に封じられましたので」

 戦支度を整えた明智が利家たちに告げた。
 すると佐脇が「勝ち目はあるのですか?」と問う。
 これもまた、利家の予想通り、大雪が降った後だった。

「勝龍寺城の細川藤孝殿に援軍を頼みました。彼ならば三好三人衆を打破し、駆けつけてくれるでしょう」
「それまで一万の軍勢から将軍を守る、か」

 その場にいた兵たち一同は黙り込んでしまった。
 彼は自分たちが不利だと分かっていた。
 このままでは士気に関わると明智は何か言おうとして――

「……面白いじゃねえか。おい、お前ら。ここで勝ったら俺たちすげえこと成し遂げたことになるぜ。殿から褒美もかなり出る」

 利家が余裕綽々に楽観的なことを言いだした。
 佐脇と新介が呆気に取られている間に「今までの戦から、三好三人衆は大したことはない」と利家は笑った。

「こんな楽な戦はねえよ。きっちり守って、殿からお褒めの言葉でもいただこうぜ」

 深刻な空気でも誰かが明るいことを言えば希望が見えてくる。
 それが猛将である利家の口から発せられたのだ。どこか説得力がある。

「なあ明智殿。俺たちが勝てる可能性、ありますよね?」

 唐突の問いに明智は先ほどのやりとりを踏まえて「無論、ある」と応じた。

「むしろ負ける要素がない。向こうは将軍と朝廷に逆らう謀叛人だ。大義名分は我らにある」

 明智は利家に乗って、皆を鼓舞した。
 利家はにやりと笑った。

「さーて、楽な戦の始まりだ。みんな、気負い入れろよ!」

 その言葉は前世でよく言った台詞でもあった。
 皆が「応!」と口を揃えた。
 ほら貝の鳴く音がした。
 士気が上がった全員はすぐさま持ち場へと急いだ――


◆◇◆◇


 三好三人衆の軍勢と利家たちは一進一退の攻防を繰り広げていた。
 明智が率いる鉄砲隊によって、何とか切り抜けているが……このまま時が進めばいずれは落ちてしまう。

 利家は塀を昇る足軽を叩き落としながら、何かが違うと感じていた。
 三好三人衆の誰かではなく、その配下でもない。
 指揮者がとてつもなく優れている。
 どういうことだろう――

「おい、利家! 指揮している奴がそこにいるぞ! 弓で狙え!」

 新介の言うとおりに弓矢を向ける――息を飲んだ。
 馬上にいるのが見覚えのある男だったからだ。
 利家はにやりと笑った。

「へっ。あのまま引き下がる男だとは思っていなかったけどな――」

 戦の最中、しかも劣勢であるのになんだか楽しくなってきた利家。
 彼の主君のように大声でその者の名を呼ぶ。

「久しぶりだなあ! 美濃国の元国主――斉藤龍興!」

 思わず近くの兵が耳を抑えてしまうほどの音量。
 対して全軍を指揮している若い男――龍興も顔がにやけている。

「ああ、久しいな。あのときの将よ――前田利家!」

 暗愚を評された男は、数々の苦難を乗り越えて、命を救われた者を討ち取りにやってきた。
 祖父のように知将で、父親のように猛将の姿を見せている。
 遠目からだが、少し瘦せた感じを利家は受けた。

「よう。若大将。俺と槍比べすっか?」
「いや、やめておこう。私はそれほどうぬぼれていない」
「けっ。敢えて臆病ではなく、用心深いんだなと言っておくぜ」

 利家は弓を引き絞って――矢を放つ。
 しかし馬上の龍興は難なく刀で斬り落とす。
 そして――

「総がかりだ! 全軍、塀を超えよ!」

 その号令と共に一斉に兵が押し寄せる――
 このままでは危ういと感じた利家。
 弓から槍に持ち替えて次々と刺していく。

「さて。期限まであと二日……」

 斉藤龍興は奮戦する利家を見ながら呟く。
 ここで殺せば織田家に損失を与えられる。
 しかしできることなら殺したくないと思っている表情。

「あっさりと死ぬなよ……前田利家」

 戦場で再会した男二人。
 互いに互いの首を狙う者。
 そしてまだまだ戦は終わらない――
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