第141話金ヶ崎の戦い

文字数 3,161文字

 疾風怒濤の勢いで金ヶ崎城を攻め落とした信長。
 従軍する家康も驚くほどの進軍速度――神速と言っても間違っていない。
 このまま、一気呵成に攻めていけば、越前国を手中に入れられる――誰もがそう思っていた。
 しかし、織田家の陣中にとある報告が入ってきた。

「長政が……裏切ったと申すか……」

 次々と物見から上がる内容は、浅井家が領有している北近江国から軍勢が進軍するというものだった。虚報だと断じる者が多い中、信長は「あの義弟、見た目よりも度胸があるではないか」と苦い顔をした。

「皆の者、ここは退却するぞ」

 裏切られたと知っても冷静さを保っている信長――しかし心中を察することはできない。
 彼の表情からは怒りを窺えなかった。ただ虚しさを感じていた。
 そしてその判断に異議を唱える者はいなかった。いくら金ヶ崎城を落としても、そこに籠って籠城などできない。さらに挟撃される形となった今、退却することが先決だった。

「それではしんがりを決めたいのだが……」

 しんがりは退却する軍勢の守りとして、最後尾に配置される。
 つまり、助かる可能性は少なかった。
 本陣にいる織田家の諸将は俯いて誰も己から応じようとしなかった――

「……殿。僭越ながら」

 沈黙の中、声を発したのは――木下藤吉郎だった。
 いつもなら余計なことを言うなと叱る者が多い。けれど彼らはこのときばかりは期待していた。

「そ、それがしに、しんがりを申しつけてくだされ……」

 勇気をもって発した言葉。
 諸将の間に弛緩した空気が漂う。
 信長はそれでも黙っていたが、藤吉郎の親友である利家が「お前、死ぬ気なのか?」と思わず声をかけた。

「今がどういう状況なのか、分かっているのか? 確かに、お前の采配は凄いけど……生き残れるかどうか……」
「ははは。死ぬかもしれないな。だけど、案外あっさりと生き残るかもしれないぞ?」

 わざとおどけて言う藤吉郎。
 利家が何か言おうとする前に「それがしは、殿に恩義がござる」と語りだす。

「百姓の出であるのに、ここまで取り立ててくださったこと。これを恩と言わずになんと言うか。それに一世一代の働きができる機会を逃したくない」

 そして藤吉郎は――信長の前に来て、頭を下げた。
 信長は黙っている。

「どうか、猿にしんがりを申しつけてくだされ」
「……木下藤吉郎。一つだけ、命じる」

 信長は藤吉郎の肩を叩いた。
 それは信頼の証だった。

「決して死ぬな――皆の者、退却するぞ!」

 慌ただしく陣中が動く中、利家は藤吉郎に「頼んだぜ、藤吉郎」と声をかけた。
 既に汗まみれの藤吉郎は「任せてくれ」と無理矢理笑った。

「殿の護衛は任せてくれ。傷一つ負わせない」

 もはや藤吉郎に何も言わない利家。
 それは信頼というべき所作だった。
 藤吉郎もそれが分かっていた。だから利家に言う。

「ああ、任せたぞ――利家」


◆◇◆◇


 信長は同盟相手の徳川家に何も言わず、退却してしまった。
 そのことを知った徳川家の諸将は憤ったが、家康はこんな状況なのに、ふと昔のことを思い出して笑った。

「いかがなさりましたか、殿」

 その表情に気づいた成政が問うと「そなた、覚えているか?」と家康は返した。

「私が子供の頃、加藤の屋敷でかくれんぼしただろう。そのとき、信長殿は刻限だからと帰ってしまったのだ。それを知らずに私はずっと押し入れに隠れていた」
「ああ。そんなこともありましたね」
「そのとき、見つけてくれたのは――そなただったな」

 懐かしさのあまり、顔がほころんでいる家康。
 つられて緩む成政は「殿は豪胆にも寝ておられた」と言う。

「こんな状況なのに、昔を思い出してしまった……」
「こんな状況だからでしょう。さて、殿には現実に戻ってもらいます」
「ああ。いかにして退却する?」
「近江国の西側……朽木谷を通り、京へ逃れるのが最良かと」

 陣中の机に地図を広げて、説明する成政。
 家康は「領主の朽木元網は浅井方ではないか?」と怪訝な顔をする。

「ここしかないとはいえ、もしも攻められたら――」
「織田家もここを通って退却すると考えられます。おそらく調略で寝返るでしょう、朽木は」
「ふむ……ま、織田殿ならばそうするだろうな」

 家康は「それでは私たちも退却を開始する」と宣言した。
 成政は「朝倉家は織田家を中心に軍勢を向けてくるでしょう」と言う。

「つまり、我らは防ぎながら退却しても余裕がございます」
「うん? 織田家と合流しないのか?」
「それよりも差し向けられる軍勢のほうが損害も無く逃れられます」

 家康は少し考えた後「それもそうだな」と頷いた。

「全軍、無駄な戦闘を避けつつ、退却せよ」

 徳川家の諸将は動揺しつつも酷い焦りはなかった。
 家康のために死ぬ覚悟はできている。それが三河武士というものだった。

 成政は内心、ここで藤吉郎が死ぬことを望んでいた。
 史実通りならば生き残るだろう。
 しかし最後まで徳川家が合流しなければ――可能性はある。

 頼む、藤吉郎。
 精々、頑張って戦って、時間を稼いで――誉れの死を得てくれ。
 その死をもって、私は汚く生きるから。

 成政が己の陣中に戻ると「退却って聞いたぜ」と従軍していた家臣、可児才蔵が槍を持ちつつ言う。
 年若い彼は不安に感じているようだ。
 成政は安心させるように「たいしたことではない」と語る。

「私たちは確実に生き残れるよ」
「なんでだ? 相手は二万もいるんだぜ? 浅井家にも挟み撃ちだ」
「進路は西近江だからな。浅井家とは当たらない。朝倉家だけ気をつければいい」

 才蔵は「あんたにそう言われると何故か納得するなあ」と笑った。

「そんじゃ、軽く退却するか。佐々家はいつでも動けるぜ」
「ああ。全軍が準備できたら動く。まだしばらくかかりそうだ」
「大蔵の兄さんは幸運だな。多分、あの人じゃ生き残れなかった」

 大蔵の兄さんとは、大蔵長安のことである。
 何故か才蔵は武の才の無い長安のことを慕っていた。

「才蔵。絶対に私から離れるなよ」
「別に初めての戦じゃねえぞ? 金ヶ崎城攻めにも参加したし」
「お前はまだ、本当の戦を知らない」

 成政が笑みを消して、才蔵に言い聞かせる。

「さっき、確実に生き残れるとは言ったが……絶対に死なないとは限らない」
「……油断大敵ってやつか?」
「それもあるが、気を張っていても死ぬときがある」

 才蔵は「経験豊かなあんたの言うとおりだと思うぜ」と比較的素直に言う。

「あんたの指示には逆らわないし、言うことも聞くさ」
「そうか。ならいい」
「俺だって、人があっさりと死ぬことは知っているからな」

 才蔵は笑顔だったが成政はそれを咎めない。
 少しぐらいの余裕はあったほうがいいと思っていたからだ。

 成政は自身も気をつけようと気を引き締めた。
 自分だけは史実通りではない展開だった。
 ならばこそ、死なぬように気を張らねば。


◆◇◆◇


「なあ山崎様よう。織田家の野郎共、既に退却したっていうじゃねえか」
「機に敏いのだろうな、織田信長という男は」

 朝倉家二万を率いる二人の武将。
 一人は自身の身長よりも大きい刀を背負っている。
 もう一人は歴戦の武将の雰囲気を醸し出している、中年の男。

「臆病だって言い方もできるぜ。それに逃げる軍勢との勝負なんて楽勝過ぎる。つまらねえ戦になりそうだぜ」

 気楽そうに大太刀を背負った男は言う。

「ゆめ油断するな。お前は軽輩過ぎる。そこを直せば良い武将に――」

 説教を始めた中年の男を半ば無視して「俺は戦えればそれでいいのさ」と大太刀の男は笑った。

「戦の指揮はあんたに任せる。それは戦場をかき乱してくるぜ」
「まさに戦うために生きているようだな――真柄直隆」

 真柄直隆と呼ばれた男は「まあな」と笑った。
 よく笑う男だなと中年の男――山崎吉家は思った。

「精々、楽しませてくれよ――織田信長」
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