第104話二択を迫る

文字数 3,075文字

 成政が甲斐国へと向かったのは、家康との話し合いから数日後のことだった。
 工場のことを本多正信に任せて、単身乗り込んだ――そこで気づく。
 本拠地である躑躅ヶ崎館の城下町で行き交う民の表情が暗かった。一様にため息をついたりしていて活気がない。成政は茶屋に入って女将と世間話した後、その理由を訊ねた。

「そりゃあお客さん。殿様が棟別銭を上げるって言うんです。生活が大変になりますよ」
「なんだと? だから皆、落ち込んでいるのか」

 棟別銭は住居に対する租税だ。恒常的に上がってしまったら民の負担が大きくなるのは必定だった。
 武田家の租税が多いことは噂で聞いていた。元々、甲斐国は貧しい土地だ。豊かになるためには他国への進攻が不可欠である。しかしその戦費を賄うために、貧しい民から搾り取るという。本末転倒というか、何ともやるせない話だった。

「殿様は私たちのことを奴隷だと思っています。必要なときに必要な分……いや、それ以上に銭や米を取り上げるんです」
「酷い話だ。このままだと甲斐国が破綻してしまうな」

 他国の者である成政に不満を言うのだから、相当耐えかねているのだろう。女将の愚痴は止まらなかった。
 成政は何かに使えそうだと思い心に留めた。

 しばらく城下町の様子を見て、成政は目的である武田義信の屋敷へと足を運んだ。
 どこか公家のような雰囲気が醸し出されている屋敷の造りに、そういえば母親が公家の出だったと成政は思い出す。義信の妻は公家文化に傾倒していた今川義元の娘だったことも影響しているかもしれない。

「待て! 貴様、何者だ!」

 じろじろと屋敷を眺めていると、見回りをしていた義信の警護役が二人、成政に声をかけた。刀に手をかけていたので成政は「怪しい者ではありません」と応じる。

「武田義信様にお目通り願いたい」
「はあ? ……もう一度訊く。何者だ!」

 流石に武田家の後継者の警護役は並みの武士では務まらないなと思う成政。
 二人は油断なく距離を取りつつ、いつでも抜刀できるようにしていた。

「私は松平家家臣、佐々成政です」
「松平家家臣、だと?」
「今日は義信様に聞いていただきたい話を持ってきました」

 警護役の二人は顔を見合わせた。
 成政の言っていることが正しいのか判断しかねているのだろう。
 後押しが必要だなと思った成政は続けて言った。

「今後の武田家についての重要な話です。どうか取り次いでください」


◆◇◆◇


 屋敷に通されたものの、警戒されているのは変わりなかった。
 客間らしきところに通されて、四半刻が経っている。
 なかなか義信も慎重だなと成政は考えた。
 茶の一杯も出されぬまま、少々退屈していた頃に、がらりと襖が開いた。

 現れたのは顔が傷だらけの小男だった。
 普通の男よりかなり低い。それでいてがっちりした体格。重臣であろう風格を感じさせる。威圧的な眼光。まるで虎みたいだなと成政は感じた。

「待たせて申し訳ない。武田家家臣、飯富虎昌だ」

 ――甲山の猛虎。そう称される武田家の家老だ。
 今は義信の傅役として側に仕えている。

「義信様がいらっしゃらないということは、私はまだ信用されていないわけですね」
「当然だろう。身元も分からない、松平家家臣を自称している男に若様を会わせられない」
「それは飯富殿のお考えですか? それとも義信様のお考えですか?」
「無論、私のだ」

 成政は「それなら安心しました」と笑顔になった。
 怪訝そうな飯富だが、どういうことかと訊ねない。
 だから成政は挑発するようなことを言った。

「もし義信様がそうお考えなら、武田家の次期当主としては些か度胸がないように思えますから」
「…………」
「ま、飯富殿が判断したのなら、慎重であると言えますね」

 飯富は「貴殿がやってきた目的を話してもらおう」と気にした様子もなく問う。
 先ほどの警護役といい、かなり手強い相手だなと成政は気を引き締めた。

「はっきり言いましょう。このままですと、義信様は廃嫡されますよ」
「……根拠はなんだ?」

 本来ならば飯富は否定するか、言っている意味が分からないと言うべきだった。
 しかし成政は違うと感じた。飯富は油断や不意を突かれるような凡人ではない。
 彼自身、その未来を打破したいと考えているのだ。
 心を開いたわけではないが、成政を推し量っている。
 そんな印象を短い言葉の中で、成政は受け取った。

「信玄公は駿河国に野心を向けています。これは家中の者でなくとも分かります」
「若様は駿河国の今川家から奥方様を娶っている。だがそれだけで廃嫡までいかない」
「そうでしょうね。それだけなら、される道理はありません」

 含みを持たせた言い方をしつつ「ところで話は逸れますが」と成政は仕掛けた。

「義信様の弟君が高遠城の城主になられたとか。優秀なご子息がいて、信玄公が羨ましいですね」
「勝頼様は優秀なお方だ。お館様の判断は正しい」
「私が聞いた噂から推察するに、勝頼様は義信様ほどの器はございません」

 成政の勝手な推察である。勝頼のことは何一つ知らない。
 しかし義信を持ち上げている発言なので、飯富は否定しなかった。

「あのお方は諏訪家を継いで、武田家の忠実な家臣になるのが分相応と言えるでしょう」
「…………」
「もし継いだら、武田家は十年と持ちませんね」

 未来知識を活用しつつ、成政は飯富の心の弱い部分をくすぐる。

「義信様が武田家を継いだら、甲相駿三国同盟は継続され、他国の侵略を阻止できます。それどころか、上杉家などの強力な大名家を打倒できる可能性があります」
「……あくまでも推測に過ぎない」
「でも不可能とも言えませんよね?」

 成政は目の前の小男が深く悩んでいるのが分かった。
 心揺さぶられているのも手に取れて分かった。
 表情に出さなくても、分かる。

「飯富殿。私に義信様を会わせてください」
「会ってどうするつもりだ? 唆すのか?」
「あなたに嘘をついても仕方がないから言いますが――そのつもりです」
「ふざけるな。そんな男と若様を会わす馬鹿がどこにいる」

 成政は「今の話を聞いて、どう思いましたか?」と問う。

「私の言っていることが的外れだと思うのなら、おっしゃるとおりに会わせる必要はありません。ですがこのままいずれ廃嫡されると分かっていて、何もしないのはどうでしょうか?」
「貴殿を会わせることで変わるとは思えん」
「それでも変わるように足掻くのが、武田義信様の傅役なのではありませんか? 飯富虎昌殿」

 成政は最後に情で訴えることにした。
 目の前の男は冷静沈着であるが、真は熱い男だと話していて理解できた。
 薄っぺらな鉄面皮を被っている、情熱的な男。
 そうでなければ、信玄も嫡男を任そうとは思わない。

「廃嫡されれば、禍根を残さないために、義信様は切腹されるでしょう」
「そうなれば私も共に腹を切る」
「武士らしいお言葉ですね。感動すら覚える。けれど、そこまでの覚悟があるのなら、義信様を生かそうと何故しないのですか?」
「武士は死ぬべき時に死ねないのは恥だ」
「私が言いたいのは、死ぬべき時を作らない方法があるということです」

 最後に成政は飯富に力強く選択を提示した。
 まるで情のない鬼のように。
 容赦もなく、迫った。

「義信様を見殺しにするか、天寿を全うさせるか。今あなたの決断で決まりますよ!」

 要は信玄に従うか、義信に従うかの二択である。
 飯富は腕組みをして天井を見上げた。
 主君への忠心か、若君への忠節か。
 勇猛果敢な武士でも判断がつかない選択。

「私は――」

 息苦しくなるほどの長い沈黙の後、飯富が出した結論は――
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