第147話姉川の戦い
文字数 3,085文字
織田家と徳川家が姉川に着陣したのは元亀元年の六月のことだった。
向かい合うのは浅井家と朝倉家の連合軍――彼らの目的は織田信長の首一つである。
信長もここで義弟の浅井長政を打倒せんとしている。守りの固い小谷城を攻め落とすには多大な犠牲を必要とする。それは避けたいところだった。
織田家の本隊は二万。徳川家は五千。
浅井家の本隊は五千。朝倉家は八千。
合計すれば織田家と徳川家のほうが有利である。
しかし、戦とは数に劣るものが負けるとは限らない。
勢いをもってすれば――逆転が起こる。
「行くぞ――我らの狙いは信長の首一つ!」
戦が始まるとともに、鋒矢の陣形――矢尻のように尖った隊列で向かうのは、浅井家の猛将である磯野員昌だ。十三段の横隊に引いた織田家を突破せんと、決死の突撃を見せた。
「磯野員昌、第三陣を突破!」
次々と伝令が信長の本陣にやってくる。どれも磯野が攻め立てる報告ばかりだ。
本来なら陣を後退させるところだが――信長は動かない。
「殿。下がらなくて良いのですか?」
そう訊ねるのは信長の傍で本陣を守っている利家だった。
信長は「退けば士気が下がる」と笑って答えた。
「そうなれば、我らだけではなく、数で勝る軍勢を相手にしている徳川家も危うくなる」
「徳川……あの野郎は怪我で戦働きができないって言っていましたね」
「お前が弱気なことを言ったからと聞いているが」
からかうように信長が言うと「あの野郎、余計なこと言いやがって」と利家は舌打ちした。
「昔から失敗を告げ口しやがる。そういう性根は変わらねえ」
「ふははは。だがしかし、己の自信を取り戻したのも事実だろう?」
主君の指摘に対し、利家は「それは感謝しますよ」とそっぽを向いた。
そこでまた伝令がやってきて「第五陣にて、森可成様が磯野の部隊に大打撃!」と報告した。
「しかしながら、磯野を止めることは叶わず!」
「まあ勢いを弱めたのは上出来だ。流石に攻めの三左だな」
可成の異名を嬉しそうに言って褒め称える信長。
利家は「流石だぜ、可成の兄い」と手を叩いた。
「そんじゃあ俺も一働きしますかね」
「頼んだぞ、利家。磯野の勢い、止めてくれ」
「かしこまりました」
利家は長槍を構えて本陣から出た。
すぐ近くには赤母衣衆と馬廻り衆が混在している。
彼らに不安な顔がちらほら見えたので利家は「気合入れろよ!」と怒鳴った。
「織田家最強の部隊の名を汚すな! 満身創痍な磯野を止めるくらい、簡単だぜ!」
「――応!」
全員の身体に気迫が漲る。
それを見た赤母衣衆の佐脇は「こういうのさせたら天下一だな」と軽く笑った。
「傾奇者していたときと一緒だ。喧嘩のときはみんなの士気を上げやがる」
◆◇◆◇
徳川家は苦戦を強いられていた。数で勝る朝倉家八千を相手にしているのだから当然だった。
加えて朝倉家が勢いづいているのは――猛将の真柄直隆の活躍による。
太郎太刀を振り回し、徳川家の兵を次々と倒していく。
「真柄……厄介な男だ……!」
悔しそうに爪を噛む家康。
それを宥めるように「殿。ご安心下さいませ」と成政が言う。
彼はまだ負傷中なので出陣せずに、家康と一緒の本陣にいた。
「本多忠勝殿が相手をします。彼ならば真柄を打破するでしょう」
「平八郎か……成政よ、本当に勝てると申すか?」
成政は「ええ。絶対に負けません」と自信満々に言う。
「殿は真柄を討ち取った後の采配をお考え下さい」
「……そなたが言うのであれば信じよう」
その言葉通り、戦場の中央で、徳川家最強の男は朝倉家最強の男と正対していた。
真柄の太郎太刀に対し、名槍蜻蛉切をもって、本多忠勝は挑む。
「ほう。なかなか歯ごたえのありそうだな。だけどよ、俺ぁ佐々成政と戦いてえんだ。そこをどきな」
「……佐々殿に託されたのだ」
忠勝は槍先を真柄に向けた。
「これからの徳川家のために、貴様を倒す――真柄直隆!」
そこでようやく、目の前の男が只者ではないことに気づく真柄。
太郎太刀を握り直し「おもしれえ」と笑った。
「佐々成政じゃねえのが残念だが……てめえも強いと認めてやる」
「……いざ、尋常に」
――勝負! と二人は激突した。
蜻蛉切で突く忠勝だが真柄は器用に躱す。あるいは受け流す。
互いに長柄の得物を使っているので各々の武器の攻撃範囲は同じだった。
武器による有利不利はない。
互いの技量が相手を上回るかどうかの勝負だ!
数合、数十合打ち合ったとき、決着は突然やってきた。
風を起きるような鋭い突きが真柄の頭すれすれを通った――
「――っ!? 見えねえ!」
あまりの凄まじい突きの風圧で、治りかけだった真柄の額の傷口が開いてしまった――噴き出る血飛沫。
忠勝は視界を遮られた真柄の隙を突くように――蜻蛉切で強かに胴を薙いだ。
手から太郎太刀が取り落ちてしまう。
どたんと倒れて――真柄は血まみれの顔で思った。
こりゃ、俺の負けだ。山崎様、申し訳ねえなあ。
「はあ、はあ……」
荒い呼吸のまま、忠勝はゆっくりと真柄に近づく。
その間、勝負を見守っていた兵たちは動けなかった。
「……やれよ。てめえの勝ちだぜ」
「…………」
忠勝は蜻蛉切を逆手に持って構えた。
「……言い残すことはないか?」
「ねえよ。もう満足しちまった」
忠勝は真柄の喉笛を貫いて――そのまま首を刎ねた。
「……真柄直隆、この本多忠勝が討ち取った!」
この一騎打ちにより、徳川家の士気が大いに上がった。
同時に家康の指揮で、別動隊が朝倉家の側面を突き――軍は崩壊した。
これにより、本多忠勝の武名は高まり。
徳川家の精強さが世に広く伝わることになる。
◆◇◆◇
「よう――磯野員昌。ここから先は通れねえぜ」
死に物狂いで本陣まで迫った磯野。
しかしその直前の部隊は突破することは叶わなかった。
利家率いる赤母衣衆と馬廻り衆がいたからだ。
「くっ……ちくしょう……!」
磯野は馬上から槍を振るう――誰がどう見ても悪あがきにしかならない。
率いた兵も次々と討ち取られていく。
利家は「諦めるんだな」と無慈悲に言った。
「てめえは強い武将だよ。でもなあ、俺たちはもっと強えんだよ!」
利家の鋭い槍の突きに馬は驚き――戦場からの離脱を図る。
「止まれ馬鹿者! 信長は目の前ぞ!」
暴走する馬を制御する気力がないのか、そのまま戦場を離脱してしまった磯野。
兵たちも我先に逃げていく――
「利家さん。あんたわざと逃がしたな?」
佐脇の指摘に「あのままとどまっていたら、犠牲が出ていた」と利家は答えた。
「なるべく味方を死なせたくねえ」
「はん。お優しいことで」
「それより戦は終盤だけど、油断するなよ。何か企んでいるかもしれねえ」
佐脇は「はっ。冗談だろ?」と笑った。
「この状況をひっくり返すことなんて、誰にもできねえよ――」
姉川の水が血に染まり、辺り一面に死臭が漂う。
悲惨な戦だった。
浅井長政と朝倉家は退却し、これで戦は終わった――はずだった。
「遠藤様! どうか、お考えを改めください!」
「無謀でございます!」
家臣たちが止める中、浅井家の重臣である遠藤直経は織田家の兵の具足を着ていた。
彼自身、これしかないと考えていた。
それは己の命と引き換えに――信長を討つこと。
「分の悪い賭けではあるまい。私の命の引換ならばおつりがくるほどだ」
遠藤はそう家臣たちに笑いかけた。
「これからも浅井家を守れ。殿のために戦うのだ」
もはや止めることはできないと家臣一同は悟った。
遠藤が陣を出るその後ろ姿は。
覚悟を決めているその後ろ姿は。
まるで死出の旅に出る者と変わらなかった――
向かい合うのは浅井家と朝倉家の連合軍――彼らの目的は織田信長の首一つである。
信長もここで義弟の浅井長政を打倒せんとしている。守りの固い小谷城を攻め落とすには多大な犠牲を必要とする。それは避けたいところだった。
織田家の本隊は二万。徳川家は五千。
浅井家の本隊は五千。朝倉家は八千。
合計すれば織田家と徳川家のほうが有利である。
しかし、戦とは数に劣るものが負けるとは限らない。
勢いをもってすれば――逆転が起こる。
「行くぞ――我らの狙いは信長の首一つ!」
戦が始まるとともに、鋒矢の陣形――矢尻のように尖った隊列で向かうのは、浅井家の猛将である磯野員昌だ。十三段の横隊に引いた織田家を突破せんと、決死の突撃を見せた。
「磯野員昌、第三陣を突破!」
次々と伝令が信長の本陣にやってくる。どれも磯野が攻め立てる報告ばかりだ。
本来なら陣を後退させるところだが――信長は動かない。
「殿。下がらなくて良いのですか?」
そう訊ねるのは信長の傍で本陣を守っている利家だった。
信長は「退けば士気が下がる」と笑って答えた。
「そうなれば、我らだけではなく、数で勝る軍勢を相手にしている徳川家も危うくなる」
「徳川……あの野郎は怪我で戦働きができないって言っていましたね」
「お前が弱気なことを言ったからと聞いているが」
からかうように信長が言うと「あの野郎、余計なこと言いやがって」と利家は舌打ちした。
「昔から失敗を告げ口しやがる。そういう性根は変わらねえ」
「ふははは。だがしかし、己の自信を取り戻したのも事実だろう?」
主君の指摘に対し、利家は「それは感謝しますよ」とそっぽを向いた。
そこでまた伝令がやってきて「第五陣にて、森可成様が磯野の部隊に大打撃!」と報告した。
「しかしながら、磯野を止めることは叶わず!」
「まあ勢いを弱めたのは上出来だ。流石に攻めの三左だな」
可成の異名を嬉しそうに言って褒め称える信長。
利家は「流石だぜ、可成の兄い」と手を叩いた。
「そんじゃあ俺も一働きしますかね」
「頼んだぞ、利家。磯野の勢い、止めてくれ」
「かしこまりました」
利家は長槍を構えて本陣から出た。
すぐ近くには赤母衣衆と馬廻り衆が混在している。
彼らに不安な顔がちらほら見えたので利家は「気合入れろよ!」と怒鳴った。
「織田家最強の部隊の名を汚すな! 満身創痍な磯野を止めるくらい、簡単だぜ!」
「――応!」
全員の身体に気迫が漲る。
それを見た赤母衣衆の佐脇は「こういうのさせたら天下一だな」と軽く笑った。
「傾奇者していたときと一緒だ。喧嘩のときはみんなの士気を上げやがる」
◆◇◆◇
徳川家は苦戦を強いられていた。数で勝る朝倉家八千を相手にしているのだから当然だった。
加えて朝倉家が勢いづいているのは――猛将の真柄直隆の活躍による。
太郎太刀を振り回し、徳川家の兵を次々と倒していく。
「真柄……厄介な男だ……!」
悔しそうに爪を噛む家康。
それを宥めるように「殿。ご安心下さいませ」と成政が言う。
彼はまだ負傷中なので出陣せずに、家康と一緒の本陣にいた。
「本多忠勝殿が相手をします。彼ならば真柄を打破するでしょう」
「平八郎か……成政よ、本当に勝てると申すか?」
成政は「ええ。絶対に負けません」と自信満々に言う。
「殿は真柄を討ち取った後の采配をお考え下さい」
「……そなたが言うのであれば信じよう」
その言葉通り、戦場の中央で、徳川家最強の男は朝倉家最強の男と正対していた。
真柄の太郎太刀に対し、名槍蜻蛉切をもって、本多忠勝は挑む。
「ほう。なかなか歯ごたえのありそうだな。だけどよ、俺ぁ佐々成政と戦いてえんだ。そこをどきな」
「……佐々殿に託されたのだ」
忠勝は槍先を真柄に向けた。
「これからの徳川家のために、貴様を倒す――真柄直隆!」
そこでようやく、目の前の男が只者ではないことに気づく真柄。
太郎太刀を握り直し「おもしれえ」と笑った。
「佐々成政じゃねえのが残念だが……てめえも強いと認めてやる」
「……いざ、尋常に」
――勝負! と二人は激突した。
蜻蛉切で突く忠勝だが真柄は器用に躱す。あるいは受け流す。
互いに長柄の得物を使っているので各々の武器の攻撃範囲は同じだった。
武器による有利不利はない。
互いの技量が相手を上回るかどうかの勝負だ!
数合、数十合打ち合ったとき、決着は突然やってきた。
風を起きるような鋭い突きが真柄の頭すれすれを通った――
「――っ!? 見えねえ!」
あまりの凄まじい突きの風圧で、治りかけだった真柄の額の傷口が開いてしまった――噴き出る血飛沫。
忠勝は視界を遮られた真柄の隙を突くように――蜻蛉切で強かに胴を薙いだ。
手から太郎太刀が取り落ちてしまう。
どたんと倒れて――真柄は血まみれの顔で思った。
こりゃ、俺の負けだ。山崎様、申し訳ねえなあ。
「はあ、はあ……」
荒い呼吸のまま、忠勝はゆっくりと真柄に近づく。
その間、勝負を見守っていた兵たちは動けなかった。
「……やれよ。てめえの勝ちだぜ」
「…………」
忠勝は蜻蛉切を逆手に持って構えた。
「……言い残すことはないか?」
「ねえよ。もう満足しちまった」
忠勝は真柄の喉笛を貫いて――そのまま首を刎ねた。
「……真柄直隆、この本多忠勝が討ち取った!」
この一騎打ちにより、徳川家の士気が大いに上がった。
同時に家康の指揮で、別動隊が朝倉家の側面を突き――軍は崩壊した。
これにより、本多忠勝の武名は高まり。
徳川家の精強さが世に広く伝わることになる。
◆◇◆◇
「よう――磯野員昌。ここから先は通れねえぜ」
死に物狂いで本陣まで迫った磯野。
しかしその直前の部隊は突破することは叶わなかった。
利家率いる赤母衣衆と馬廻り衆がいたからだ。
「くっ……ちくしょう……!」
磯野は馬上から槍を振るう――誰がどう見ても悪あがきにしかならない。
率いた兵も次々と討ち取られていく。
利家は「諦めるんだな」と無慈悲に言った。
「てめえは強い武将だよ。でもなあ、俺たちはもっと強えんだよ!」
利家の鋭い槍の突きに馬は驚き――戦場からの離脱を図る。
「止まれ馬鹿者! 信長は目の前ぞ!」
暴走する馬を制御する気力がないのか、そのまま戦場を離脱してしまった磯野。
兵たちも我先に逃げていく――
「利家さん。あんたわざと逃がしたな?」
佐脇の指摘に「あのままとどまっていたら、犠牲が出ていた」と利家は答えた。
「なるべく味方を死なせたくねえ」
「はん。お優しいことで」
「それより戦は終盤だけど、油断するなよ。何か企んでいるかもしれねえ」
佐脇は「はっ。冗談だろ?」と笑った。
「この状況をひっくり返すことなんて、誰にもできねえよ――」
姉川の水が血に染まり、辺り一面に死臭が漂う。
悲惨な戦だった。
浅井長政と朝倉家は退却し、これで戦は終わった――はずだった。
「遠藤様! どうか、お考えを改めください!」
「無謀でございます!」
家臣たちが止める中、浅井家の重臣である遠藤直経は織田家の兵の具足を着ていた。
彼自身、これしかないと考えていた。
それは己の命と引き換えに――信長を討つこと。
「分の悪い賭けではあるまい。私の命の引換ならばおつりがくるほどだ」
遠藤はそう家臣たちに笑いかけた。
「これからも浅井家を守れ。殿のために戦うのだ」
もはや止めることはできないと家臣一同は悟った。
遠藤が陣を出るその後ろ姿は。
覚悟を決めているその後ろ姿は。
まるで死出の旅に出る者と変わらなかった――