第145話狙撃
文字数 3,161文字
「細川殿。織田信長という男は――たいしたことはありませんね」
二条城の評定の間。
そう愚痴るのは十五代将軍、足利義昭だった。
彼は不満そうに側近である細川藤孝に言う。
「上洛前は斉藤家に長良川の戦いで大敗。伊勢国では私が和睦を仲介しなければ負けていた。そして今――浅井家と朝倉家の戦で単身逃げ帰ってきたという。こんな男に軍事を任せて良いのでしょうか?」
「公方様のおっしゃる通りですが、戦の勝敗など移ろいやすいものです。それに結果として勝ち続けています。織田家の軍事力は本物ですよ」
細目で背の高い細川藤孝はやんわりと信長を擁護した。
それは明智を通じて自らが信長を仲介したからでもあった。
しかし、義昭はそれでも納得しない。
義昭は線の細い体格で、元々僧侶だったこともあり、さほど鍛えてはいない。
けれども、聡明そうな顔つきをしている。将軍としての見栄えもいい。
だからこそ、足利の政権のために織田家――ひいては信長という男を見定めなければいけなかった。
「もしまた大きく負けることがあれば――私も考えなければなりません」
「新たな大名を選定するのですか? それが朝倉であると?」
「あるいは武田信玄ですかね。やや土地が遠いですが戦上手と聞きます」
細川の額に汗が滲んだ。
今や明智は織田家の重臣である。それと誼を通じている自分の立場が危ぶまれる可能性があった。
それに信義の問題もある。織田家のおかげで今の地位に就けた――それは細川も義昭も同じだった。
無論、世間の印象が悪くなるのは必定だ。
足利家を打ち破る大義名分となるかもしれない。
逆に信長の悪評を流せば――いや、これは楽観的か。
「信長は先進的な考えを持っていますが、実力が伴わなければ意味がありません」
義昭は酷薄な笑みを浮かべた。
自分の無用なものは消す――悪意や害意ではなく、決意をもって行動する。
それは将軍にしては正々堂々とは言えない行ないだった。
「信長に残された機会は一度きりです。それ以上は許せません」
◆◇◆◇
軍勢を整えた信長は京から岐阜城へ帰還する――その様子はまるで負け戦を感じさせない、凱旋のように堂々としたものだった。
否、負け戦だからこそ――強気で行かねばならないと思っていたのだ。
「こういう派手なことをさせたら、殿は天下一だな」
「まあな……俺たちも負けねえようにしっかりやろうぜ」
そう話しているのは赤母衣衆の佐脇良之と毛利新介だった。織田家の精鋭部隊として、だらしない恰好をするのは許されない。鎧に汚れ一つ無く、真っ赤な母衣を際立たせていた。
「ところで利家さんはどこにいるんだ? 一応、赤母衣衆筆頭だろう?」
「一応じゃないけどな。あいつは殿の近くで警護するって。なんか嫌な予感がするんだと」
「そういう嗅覚は鋭いんだよなあ……」
佐脇は自分も一緒にいるべきか迷ったが、利家に協力するのも癪だったので、元の配置にいることにした。新介は利家がいれば安心だろうと考えている。
その利家は信長を守るため、常に警戒していた。
京を出てからも同じだった。まだ嫌な予感が消えなかったのだ。
「利家。俺の身を案じてくれるのは分かるが、そこまで気を遣わんでもいいぞ?」
信長は緊張状態の利家の気を緩めようと声をかけるが「予感がするんですよ」と彼は言う。
「それに備えておけば少なくとも後悔しなくていいですよね」
「備えあれば憂いなしか?」
「俺としてはその派手な布とかやめてほしいんですけどね」
利家が言っているのはマントのことである。真紅に彩られたそれは、信長の黒い鎧と相まって、魔王のように見えた。
「なんだ? 格好悪いとでも言うのか?」
「めちゃくちゃ格好いいからですよ。一目で大将だって分かるじゃないですか」
「分かったほうが兵が集まりやすく、守りが固めやすいだろう」
「敵に狙われるって言いたいんです」
そんな話をしていると、千草峠に差し掛かった。
ここを越えれば一先ず安全だ。周りの兵たちも弛緩してしまう。
信長も他の武将もつい油断してしまった――
◆◇◆◇
この日は夏の始まりのやや熱い時期だった。
岩陰に隠れた杉谷善住坊は自らの呼吸を抑えつつ、信長を待っていた。
自分がいる場所ならば狙撃する相手との距離は十三間――十分当てられる。
信長は馬上に乗っている。とても狙いやすい位置だ。自分ならば確実に殺せると杉谷は確信している。そう、信仰するほどに――己の腕を信じていた。
そして彼は信長を――見つけた。
遠目からも信長だと分かる風格と覇気。
もし違っても織田家に大打撃を与えられるくらいの大物だろうと推測した。
火蓋を切って、狙いを定める。
そして杉谷と信長の距離が最大限まで近づいたとき――
「死ね……信長!」
◆◇◆◇
そのとき、利家は信長の後方にいた。
少し休むように言われたのだ――しかし、それが幸いした。
杉谷が火蓋を切ったとき、微かに火薬の臭いが漂った。
利家の脳内が目まぐるしく回転する。
火薬? 味方が使うわけがない。
なら敵か? ここを爆発させる?
否――それならもっと臭いが強いはずだ。
つまり――火縄銃での狙撃!
「殿ぉおおおおおおお!」
利家が馬を走らせ、信長の前に割り込んだのと同時に、杉谷は撃った。
銃弾は体勢を崩した信長をかすって――その後ろの木に当たる。
騒がしくなる軍勢を見て、杉谷は舌打ちをしてその場から去った。
失敗した以上、この場にとどまっているのは危険だった。
「殿! お怪我はありませんか!?」
必死の形相で信長の身体を確認する利家。
前後不覚になっていた信長だったが、己に怪我がないことが分かると「ああ、大事ない」とだけ言えた。
「よ、良かった……」
「……お前の勘は悪いほうに当たるな、利家」
苦笑する信長に「当たったから殿は生きているのでしょう」と利家は返した。
すぐに下手人を探させたが、流石にここの地理を知り尽くした杉谷には追いつけなかった。
信長は改めて行軍を開始した。
「天は我を生かそうとしたのか。それとも利家の勘のおかげで助かったのか……」
信長の呟きは小さすぎて誰の耳にも入らなかった。
◆◇◆◇
岐阜城に帰還した利家は真っすぐ自分の屋敷に戻った。
本圀寺からずっと京にいたので、まつとは会えていない。
屋敷の門をくぐると、真っ先にまつが「利家!」と抱き着いてきた。
「おおっと。まつ、元気だったか」
「利家利家利家――ずっと、ずっとずっと、ずっとずっとずっと、会いたかったですよ!」
出迎えた家人たちは、感動の再会であるのに、どこかうすら寒い気分を抱いていた。
まるで多大な狂気を見ているような……
「俺だって、会いたかったさ」
「私は一日中、利家のことを考えていましたよ。寝ていても、起きていても、ずっと」
「あははは。そいつは嬉しいな」
利家は本気にとらえなかったが、まつのほうは本当に四六時中利家のことを考えていた。
もし京で浮気をしたらと考えると頭がおかしくなるほどだった。
いっそのこと、京まで行こうかと思いつめていたのだ。
「これからはゆっくりと休めるぞ。お前と子たちで過ごせるかもしれない」
「本当ですか? 嘘でしたら許しませんよ……」
「嘘なんか――」
そう言ったとき、織田家の兵が「前田様! 急ぎ登城願います!」とやってきた。
「御屋形様が、軍議を始めるとのこと!」
「そうか。まつ、行ってくる」
「…………」
明るかった顔が一瞬にして暗いものになる。
それを見ていた家人たちは恐怖した――
「美味しいご飯、作って待っててくれよな」
最後にまつを抱きしめて、利家は兵と共に屋敷を出た。
とろけそうな顔をしているまつ。そして震えている家人たちに命じた。
「今日の夕餉はとびっきり美味しいものにしましょうね」
「は、はいっ!」
二条城の評定の間。
そう愚痴るのは十五代将軍、足利義昭だった。
彼は不満そうに側近である細川藤孝に言う。
「上洛前は斉藤家に長良川の戦いで大敗。伊勢国では私が和睦を仲介しなければ負けていた。そして今――浅井家と朝倉家の戦で単身逃げ帰ってきたという。こんな男に軍事を任せて良いのでしょうか?」
「公方様のおっしゃる通りですが、戦の勝敗など移ろいやすいものです。それに結果として勝ち続けています。織田家の軍事力は本物ですよ」
細目で背の高い細川藤孝はやんわりと信長を擁護した。
それは明智を通じて自らが信長を仲介したからでもあった。
しかし、義昭はそれでも納得しない。
義昭は線の細い体格で、元々僧侶だったこともあり、さほど鍛えてはいない。
けれども、聡明そうな顔つきをしている。将軍としての見栄えもいい。
だからこそ、足利の政権のために織田家――ひいては信長という男を見定めなければいけなかった。
「もしまた大きく負けることがあれば――私も考えなければなりません」
「新たな大名を選定するのですか? それが朝倉であると?」
「あるいは武田信玄ですかね。やや土地が遠いですが戦上手と聞きます」
細川の額に汗が滲んだ。
今や明智は織田家の重臣である。それと誼を通じている自分の立場が危ぶまれる可能性があった。
それに信義の問題もある。織田家のおかげで今の地位に就けた――それは細川も義昭も同じだった。
無論、世間の印象が悪くなるのは必定だ。
足利家を打ち破る大義名分となるかもしれない。
逆に信長の悪評を流せば――いや、これは楽観的か。
「信長は先進的な考えを持っていますが、実力が伴わなければ意味がありません」
義昭は酷薄な笑みを浮かべた。
自分の無用なものは消す――悪意や害意ではなく、決意をもって行動する。
それは将軍にしては正々堂々とは言えない行ないだった。
「信長に残された機会は一度きりです。それ以上は許せません」
◆◇◆◇
軍勢を整えた信長は京から岐阜城へ帰還する――その様子はまるで負け戦を感じさせない、凱旋のように堂々としたものだった。
否、負け戦だからこそ――強気で行かねばならないと思っていたのだ。
「こういう派手なことをさせたら、殿は天下一だな」
「まあな……俺たちも負けねえようにしっかりやろうぜ」
そう話しているのは赤母衣衆の佐脇良之と毛利新介だった。織田家の精鋭部隊として、だらしない恰好をするのは許されない。鎧に汚れ一つ無く、真っ赤な母衣を際立たせていた。
「ところで利家さんはどこにいるんだ? 一応、赤母衣衆筆頭だろう?」
「一応じゃないけどな。あいつは殿の近くで警護するって。なんか嫌な予感がするんだと」
「そういう嗅覚は鋭いんだよなあ……」
佐脇は自分も一緒にいるべきか迷ったが、利家に協力するのも癪だったので、元の配置にいることにした。新介は利家がいれば安心だろうと考えている。
その利家は信長を守るため、常に警戒していた。
京を出てからも同じだった。まだ嫌な予感が消えなかったのだ。
「利家。俺の身を案じてくれるのは分かるが、そこまで気を遣わんでもいいぞ?」
信長は緊張状態の利家の気を緩めようと声をかけるが「予感がするんですよ」と彼は言う。
「それに備えておけば少なくとも後悔しなくていいですよね」
「備えあれば憂いなしか?」
「俺としてはその派手な布とかやめてほしいんですけどね」
利家が言っているのはマントのことである。真紅に彩られたそれは、信長の黒い鎧と相まって、魔王のように見えた。
「なんだ? 格好悪いとでも言うのか?」
「めちゃくちゃ格好いいからですよ。一目で大将だって分かるじゃないですか」
「分かったほうが兵が集まりやすく、守りが固めやすいだろう」
「敵に狙われるって言いたいんです」
そんな話をしていると、千草峠に差し掛かった。
ここを越えれば一先ず安全だ。周りの兵たちも弛緩してしまう。
信長も他の武将もつい油断してしまった――
◆◇◆◇
この日は夏の始まりのやや熱い時期だった。
岩陰に隠れた杉谷善住坊は自らの呼吸を抑えつつ、信長を待っていた。
自分がいる場所ならば狙撃する相手との距離は十三間――十分当てられる。
信長は馬上に乗っている。とても狙いやすい位置だ。自分ならば確実に殺せると杉谷は確信している。そう、信仰するほどに――己の腕を信じていた。
そして彼は信長を――見つけた。
遠目からも信長だと分かる風格と覇気。
もし違っても織田家に大打撃を与えられるくらいの大物だろうと推測した。
火蓋を切って、狙いを定める。
そして杉谷と信長の距離が最大限まで近づいたとき――
「死ね……信長!」
◆◇◆◇
そのとき、利家は信長の後方にいた。
少し休むように言われたのだ――しかし、それが幸いした。
杉谷が火蓋を切ったとき、微かに火薬の臭いが漂った。
利家の脳内が目まぐるしく回転する。
火薬? 味方が使うわけがない。
なら敵か? ここを爆発させる?
否――それならもっと臭いが強いはずだ。
つまり――火縄銃での狙撃!
「殿ぉおおおおおおお!」
利家が馬を走らせ、信長の前に割り込んだのと同時に、杉谷は撃った。
銃弾は体勢を崩した信長をかすって――その後ろの木に当たる。
騒がしくなる軍勢を見て、杉谷は舌打ちをしてその場から去った。
失敗した以上、この場にとどまっているのは危険だった。
「殿! お怪我はありませんか!?」
必死の形相で信長の身体を確認する利家。
前後不覚になっていた信長だったが、己に怪我がないことが分かると「ああ、大事ない」とだけ言えた。
「よ、良かった……」
「……お前の勘は悪いほうに当たるな、利家」
苦笑する信長に「当たったから殿は生きているのでしょう」と利家は返した。
すぐに下手人を探させたが、流石にここの地理を知り尽くした杉谷には追いつけなかった。
信長は改めて行軍を開始した。
「天は我を生かそうとしたのか。それとも利家の勘のおかげで助かったのか……」
信長の呟きは小さすぎて誰の耳にも入らなかった。
◆◇◆◇
岐阜城に帰還した利家は真っすぐ自分の屋敷に戻った。
本圀寺からずっと京にいたので、まつとは会えていない。
屋敷の門をくぐると、真っ先にまつが「利家!」と抱き着いてきた。
「おおっと。まつ、元気だったか」
「利家利家利家――ずっと、ずっとずっと、ずっとずっとずっと、会いたかったですよ!」
出迎えた家人たちは、感動の再会であるのに、どこかうすら寒い気分を抱いていた。
まるで多大な狂気を見ているような……
「俺だって、会いたかったさ」
「私は一日中、利家のことを考えていましたよ。寝ていても、起きていても、ずっと」
「あははは。そいつは嬉しいな」
利家は本気にとらえなかったが、まつのほうは本当に四六時中利家のことを考えていた。
もし京で浮気をしたらと考えると頭がおかしくなるほどだった。
いっそのこと、京まで行こうかと思いつめていたのだ。
「これからはゆっくりと休めるぞ。お前と子たちで過ごせるかもしれない」
「本当ですか? 嘘でしたら許しませんよ……」
「嘘なんか――」
そう言ったとき、織田家の兵が「前田様! 急ぎ登城願います!」とやってきた。
「御屋形様が、軍議を始めるとのこと!」
「そうか。まつ、行ってくる」
「…………」
明るかった顔が一瞬にして暗いものになる。
それを見ていた家人たちは恐怖した――
「美味しいご飯、作って待っててくれよな」
最後にまつを抱きしめて、利家は兵と共に屋敷を出た。
とろけそうな顔をしているまつ。そして震えている家人たちに命じた。
「今日の夕餉はとびっきり美味しいものにしましょうね」
「は、はいっ!」