第66話人の欲

文字数 3,076文字

 散々、藤吉郎と可成に発破をかけられた利家は、まつに腹を割って話そうと決意した。
 まつを心から思っていると、きちんと伝えなければいけない。それが夫の務めだと利家は酔った頭で考えていた。

 利家がそのようなことを考える時点で、頭が正常な働きをしていないことは明白であるが、それを指摘する者は傍にいなかった。既に酒宴はお開きになっており、各々の屋敷への帰路を辿っていた。

 しかし、酩酊している利家の蕩けた頭が、一気に醒める光景が、利家の家の前にあった。まつが玄関の外で一人座り込んでいたのだ。何やらぶつぶつと呟いている。日付が変わるかどうかの時刻だった。

「おいまつ! お前どうして――」

 帰りが遅くなると今朝方言ったはずなのにと利家は思いつつ、うずくまっているまつに近づく。
 ゆっくりと顔を上げるまつ――うっすらと狂気の表情が浮かんでいた。

「随分と――遅かったですね、利家」
「遅くなるって言っただろう! それよりお前、大丈夫か? ずっと待っていたのか!?」
「ええ。ずっと。ずっとずっと。ずっとずっとずっと――待っていましたよ」

 笑顔で応じるまつに利家は「ほら。寒かっただろう。家に入ろう」と手を取った。するとまつは笑顔のまま、その手をしっかりと握った。

「暖かい……あのときと一緒ですね……」
「こんな時間まで外にいたのだから当然だ! ほれ、立てるか?」

 利家に抱きかかえられて、心から幸せそうな表情をするまつ。
 それに気づかず、利家はすっかり酔いが醒めた頭で、まつが待っていた理由を考えていた。

 家の居間で火を起こし、掛け布団をまつに被せて、温かい白湯をまつに手渡す利家。沢彦和尚辺りが見たら滑稽に思えるほど献身的な行ないだった。利家はまつが落ち着くまで待った。

「まつ。どうして外で待っていたんだ? 先に寝ていなさいと言ったはずだが」

 利家はできる限り優しい口調でまつに話しかけた。下手に刺激してはいけないとなんとなく思ったので、自然とそういう口調になってしまった。
 まつは利家の目を凝視して「怖かったのです」と不安を口にした。

「怖かった? そりゃ、夜は怖いけどよ、家の中のほうが――」
「違います。利家がどこかへ行ってしまいそうで、怖いのです」

 利家は頬を掻きながら「どこにも行かねえよ」と答えた。妻であるまつを置いてどこかに行くなど、彼の中には無かった。
 まつは利家の目をじとりと見つめながら「いつも怖いのです」と続けた。

「私を愛してくれないことが、とても不安なのです」
「前にも言っただろう。お前は――」
「はっきりと言ってください! 他に女がいるんでしょう!」

 この世の終わりかと思わせるようなまつの絶叫。
 血走った目でまつは利家を睨みつける。

「私を抱こうとしないのは女がいるからでしょう! そうに違いないわ! 私の幼さは建前で、絶対に女がいるに決まっている! その女が憎い! 憎くて憎くて、殺してやりたいくらいだわ!」

 恐ろしいほどの嫉妬の塊を利家はぶつけられた。
 常人ならば失神してしまいそうな女の情念であった。
 弱冠十二才の女の子のものとは思えない憎悪だった。

「私はこんなに好きなのに、利家は振り向いてくれない……! それが憎らしい……!」
「落ち着けって。囲っている女なんていねえよ」
「――嘘よ! 嘘に決まっているわ!」

 まつは布団を取って利家に飛びかかった。
 歴戦の武士でも反応できないほどの速度だった。
 利家の上に馬乗りになるまつ。そして彼の首に手をかけた。

「正直に言ってよ! 私のこと、嫌いなんでしょう!」
「…………」
「――っ! 黙ってないで何とか言いなさいよ!」

 まつの手に力が入る。
 しかし利家は抵抗もせず、まつを見つめていた。
 一点の曇りなき瞳で、自分の妻を見る。

「……もういいわよ!」

 利家の真っ直ぐな目にまつは怯んで、首から手を放した。
 少し咳払いした後、上体を起こして、利家はまつを抱き締めた。

「なっ!? ちょっとやめてよ!」
「…………」

 腕の中で暴れるまつだが、利家は決して離さなかった。
 かといって強く抱き締めているわけではない。
 痛くない程度で慈しむように抱きしめている。

「何が、したいのよ! そんなんで誤魔化されないんだからね!」
「……誤魔化してねえよ」
「じゃあ、なんで……!」
「ごめんな、不安にさせて。本当に悪かったよ」

 槍の又左の異名を知っている者からして見れば、奇妙に思えるほど、優しい声と仕草だった。まつの頭を撫でていると、次第に彼女は落ちついていく。

「俺はお前以外に好きな女なんていねえ。当然、囲っている女もいない」
「嘘、言わないでよ……だったら、なんで私を愛してくれないの……」
「愛しているさ」
「嘘……絶対に、嘘……」

 利家は少しだけ身体を離し、まつと見つめ合った。
 決して目は離さなかった。まつのほうもそうだった。

「信じてくれ。俺はお前のこと、好きなんだよ」
「……利家」
「だから――泣くな」

 指摘されて、まつは気づいた。自分が泣いていることに。
 利家は大きな手でまつの頬を触り、ゆっくりと指で涙を拭った。

「利家ぇ……」
「不安にさせてごめんな」

 ゆっくりと利家の顔がまつに近づく。
 まつは目を閉じてそれを受け入れた――


◆◇◆◇


「道三様、お久しゅうございます」
「うん? はて、誰じゃったかの?」

 村井との酒宴の翌日、成政は清洲城の一室で斉藤道三と会っていた。
 既に呆けている道三だが、成政は何か得るものがあるかと思い、二人きりで話していた。

「どうしたら敵を味方に付けられるのか。ご教授願いたく存じます」
「はあ……孫四郎に聞いたら良かろう」

 孫四郎とは斉藤道三の子であり、数年前に殺されてしまった。
 成政は「敵は敵でも、直接的な敵ではございません」と話を続けた。

「敵の味方をこちら側に協力させる……難しい勤めです」
「ふむ。だったら喜平次はどうかの?」
「どうすれば人は人を裏切るのでしょうか?」

 道三は寝そべりながら「利益があれば、裏切るのではないか?」と呆けたまま言う。

「その者が欲しがるものを差し出せば、人は揺らぐであろうな」
「欲しがるもの、ですか」
「一つだけ、おぬしに教えてやろう」

 道三の目の濁りは無くなり、しっかりとした輝きがあった。
 成政は「ご教授ください」と頭を下げた。

「欲というのは抑えることはできぬ。そして人によって欲が違う。土地であったり、金であったり。だがな、欲は近くにあるものほど、欲しくなるものだ」
「……近くにあるものほど」
「かの者にとっては、それは『海』かもしれんな」

 成政はごくりと唾を飲み込んだ。
 何も話していないのに、全てを理解している。
 流石は美濃のまむしと恐れられた男だった。

「わし、船に乗りたいのう。今度釣りでもせんか?」
「ええ。ご一緒させていただきます」
「そのときには、孫四郎たちも一緒にな」

 成政は「必ず行きましょう」と頭を下げて退座した。
 城の廊下を歩いていると、ふらふらで歩いている利家の姿が見えた。

「どうした利家。お前、やつれていないか?」
「ああ、成政か。ちょっとな……」
「何かあったのか?」
「いや、その、何度も……なんでもない」

 話す気力もないようで、そのままよろけながら去って行く利家を不思議に思いながら、成政は自分の主命のため、馬屋に向かった。

 目指すは甲斐国で、訪ね人はそこの主――武田信玄。
 そしてその主命とは今川家の進攻を阻止すること。
 つまりは武田家の裏切りを誘発することだった。

「やれやれ、殿も難儀なことをおっしゃるなあ」

 成政は一路、東へと向かった――
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