第19話新たな決意

文字数 3,222文字

 竹千代が今川家に送られて以来、信長は物思いに耽ることが多くなったと、犬千代は何となく感じていた。あの少年は内蔵助に懐いていたから、犬千代とはあまり交流がなかったが、信長を変えるほど重要だったのだろうか?

「なあじじい。どうなんだよ」
「……人に物を聞く態度ではないな」

 ふらりと家にやってきたかと思えば、傍若無人に湯漬けを欲しがり、そのまま横になった犬千代に青筋を立てながら、沢彦宋恩は「三河国の大名、松平家の若君だからな」と素っ気無く答える。

「陪臣の四男坊よりもずっと価値がある。何故ならこれで今川家は駿河国と遠江国だけではなく、三河国をも手中に収めたのだからな」
「ふうん。そんなもんか」
「……人に聞いておいて、無礼にもほどがあるぞ!」

 とうとう怒鳴ってしまった沢彦。しかし微塵も気にする素振りをしない犬千代。それどころか「なんか悲しいよな」と訳の分からないことを言い出す始末だった。

「はあ? 何が悲しいのだ?」
「竹千代だよ。あいつ、価値があるようでないじゃねえか」
「……訳が分からん。先ほど言ったとおり、松平家の跡継ぎだからこそ」
「そうじゃねえよ。あいつは――何も悪くねえのに、酷い目に遭っている」

 犬千代はつらつらと自分の考えを述べ始める。まるで思ってもいないことを、どうでも良さそうに、言葉をぶつ切りして話す。

「あいつは生まれのせいで、父親から見捨てられた。母親とも会えねえ。いつ死んでもおかしくない生活を送っている。若がどういうつもりで仲良くしていたのか、さっぱり分からねえけど、少しぐらい打算があったのは、馬鹿な俺でも分かる」
「……ふむ。それで?」
「俺はよ――許せねえんだ」

 犬千代は起き上がって沢彦の顔を見た。そして彼らしくない真剣な表情で言う。

「そいつが何一つ悪くねえのに、周りの環境のせいで不幸になる。そういうの、嫌なんだよ」

 両親が事故死して、意地悪な叔父夫婦に育てられた前世を持つ犬千代だからこそ、そういうことが言えた。沢彦はどこか説得力のある犬千代の言葉を静かに聞いていた。

「あいつを何の打算も無しに接していて、同情もしてやったのは、気に食わないあの野郎だっていうのも気に食わねえ。なあ、じじい。教えてくれよ。そういう不幸な子供を作らないようにするって、どうすればいいんだ?」

 沢彦は溜息をつきながら「それが分かったら戦国乱世は終わっておる」と答えた。

「それどころか永久に平和な世となるだろうよ」
「……分かった。じゃあ妥協してやる。竹千代みてえな子供を減らすにはどうしたらいい?」

 沢彦は思わず感嘆の声をあげそうになった。意外と柔軟な発想を持っている犬千代に驚きを禁じえなかった。てっきり頑固で頭の固い若者だと思っていたのだ。しかしこの前の説法を受け入れているのを鑑みれば当然なのかもしれない。

「……矛盾しているようだが、戦国乱世を終わらせることだ。人々が戦うことなければ、人質など要らなくなる」
「はっ。じゃあ結局、俺のやることは変わらねえってことか」

 犬千代はその場に座り込んで、胡座をかきながら、馬鹿みたいな笑顔になった。

「若の尾張国統一の手助けをして、そのまんま天下も取っちまえばいいのか」
「……単純な男だ。その過程で多くの人間が死ぬぞ」

 あまりに残酷な現実を突きつける沢彦に犬千代は不敵に笑いかける。

「じじいは坊さんだろ? だったら――人はいずれ死ぬって分かっているじゃねえか」
「…………」
「俺ぁ多くの人間殺しても――若について行くぜ。そうすりゃあいつみたいな可哀想な奴は少なくなる」

 犬千代はいきなり姿勢を正した。そして沢彦に向かって頭を下げる。

「だから――俺にあんたの知識を教えてくれ」
「…………」
「俺は馬鹿だからよ。物覚え悪りいし、何度も同じこと訊くかもしれねえ。出来が悪いぼんくらだ。でも絶対、言われたことは習得してみせるから」

 犬千代は森可成との槍術の訓練をして気づいてしまった。確かに自分は強くなっているが、弱い奴は弱いままだと言うことを。個人の武だけでは全体を守れないということを。

「俺は弱い奴を守るとか、そんなだりいことは考えねえ。俺は自分が守れるくらいの人数を守る。そのためには槍が上手いだけじゃ駄目なんだ」
「その程度の人間を守ってどうする? お前も言ったとおり、人はいずれ死ぬぞ」
「守った奴がすげえことするかもしれねえじゃねえか。俺じゃ思いつかない、若を天下統一させてくれるような方法を」

 沢彦はそれを聞いて、目を丸くした。そして大笑いした。馬鹿な子供の考えだった。どこまでも幼稚な発想の理想論だった。
 しかし目の前の小僧――犬千代は真剣だった。馬鹿みたいな考えを馬鹿みたいに信じている。現に笑われても真剣な表情を崩さず、射抜くように沢彦を見つめていた。

 だからこそ――沢彦宋恩はガラにも無く、犬千代を気に入ってしまった。

「はっはっはっは! 小僧が、言いよるわ! だが――面白いぞ!」

 沢彦はまるで宝石のように輝く若者、犬千代を眩しそうな目で見つめた。少し前は人を殺して悩んでいたのに、人を知ったおかげでかなり成長したようだった。

「良いだろう! わしの知る全てをお前に授けてやろう! こんな気持ちになったのは、信長と初めて出会ったとき以来だ!」

 それに対して犬千代は「本当か!?」と子供のように素直に喜んだ。本当に根が単純な男だと沢彦は改めて思った。

「じゃあじじい。さっそく教えてくれ!」
「ふん。湯漬けのことは頭から離れたようだな」
「それは後で食う!」

 にわかに騒がしくなった沢彦の家。
 その外で戸に背中を預けながら、全て聞いていた男がいた。

「……であるか」

 信長は誰に言うでもなく呟き、その場を後にした。
 彼には彼のやるべきことがあった。
 それ以上に、犬千代の心意気がたまらなく嬉しかったのだった。


◆◇◆◇


 織田弾正忠家の当主、信秀の病状は日に日に悪化していた。
 多くの戦を指揮し、上役を追い抜かんと神経を張り巡らせた結果、心身共に弱っていた。
 その上、もう一つ悩ませることがあった。

「あなた様。どうして――信行を後継者に選んでくださらないのですか?」

 正室の土田御前(どたごぜん)の圧力だった。彼女は年齢よりも若く美しく、それでいて触れると傷ついてしまうような美貌を備えた女性だった。普段の彼女は夫を立てる良き妻であったが、一つだけ悪癖があった。それは彼女の長男である信長ではなく、その弟の信行を可愛がることだった。

「何度も言っておるだろう……後継者は信長だ……」
「私は何度も何度も言っているではありませんか。信行のほうが後継者に相応しいと」

 病床で横たわっている自分にしつこく言う土田御前に辟易しながらも、決して意見を翻さない信秀。すると土田御前は首を傾げながら「何ゆえですか?」と訊ねた。

「信行は品が良く、礼儀もなっています。後継者に相応しいでしょう?」
「……確かにそうだが、信長のほうが器が上だ」
「馬鹿なことを。きっと病のせいで考えを誤っているのですよ」

 目に光のない土田御前。無表情の顔をずいっと近づける。
 傍目から見ると、とても恐ろしい光景だった。

「お願いします。どうか信行を――」
「……下がれ」

 信秀は目を閉じてそっぽを向いた。もううんざりだった。
 しばらくそんな夫の姿を見続けていた土田御前だったが「また来ます」と言い残して部屋を出て行った。

「……わしが死んだら、兄弟同士で争うことになるな」

 信秀は瞼の裏の暗闇を感じながら、自分の死後を憂いていた。
 だからこそ、打てる手は打っておこうと思った。

「平手政秀と信長を呼べ……」
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