第157話孤独の夜
文字数 3,072文字
成政が無事に浜松城へ帰還したのは、武田家との戦いの直前、つまり農繁期が終わる頃だった。
それまで成政はあの上杉謙信と交渉を続けていた。結果として同盟を結ぶことはできた。春先に出兵することも確約してくれた。
しかし、徳川家は信濃国を不可侵とするというのは頭が痛い。そうなると関東に進出するしかないが、強大な北条家がいる。加えて関東管領である上杉謙信もいい顔をしないだろう。
これらのことを包み隠さずに家康に報告した成政。いや、家康以外の家老や侍大将の者がいる評定の間での報告だった。
「申し訳ございません。不甲斐ない結果に終わりました」
成政としては何らかの貢ぎ物で済ませる予定だったので、謝罪の気持ちでいっぱいだった。
けれども、家康は「私からして見れば上首尾なのだが……」と困惑している。
「何故、そのようにかしこまる?」
「同盟を結んでいても、近ければ軋轢が生じます。武田家のように……」
「……なるほどな。そなたの言わんとするところ理解した」
上杉家が次の相手になるかもしれない可能性を作ってしまった。それを成政は謝っているのだ。
「されど、佐々殿は上手く話をまとめたと思いまする」
思わぬ援護だった。そう発言したのは家老の石川数正である。
「数正! 何を言うか!」
目を剥いて怒ったのは成政と折り合いの悪い酒井忠次だ。それを冷静に「私では上手くいかん」とさらに認めるようなことを言った。
「もう良いではないか。佐々殿は優れた方だ。徳川家に必要な方だ。酒井殿も分かっているはずだ」
「……それは認めよう。殿の前でもあるからな」
「外様であろうとも、佐々殿は我らの味方。徳川家に有益をもたらすのなら、いがみ合うのはやめたほうがいい」
そして石川は「今まで申し訳ない」と頭を下げた。
それに追従するように侍大将の数名も倣った。
他の家老たちが呆気に取られる中、成政の心に熱いものが芽生えつつあった。前世において、両親から認めてもらえなかった。今でも自分を毛嫌いする者がいる。
だけど、嫌われていた者から再評価されて、認められるという経験は初めてだった――厳密に言えば利家がいるが成政は気づかなかった――だからだろう、自然と涙が浮かんだ。
「良かったな、成政」
「殿に見苦しいところを……」
「良い。良いのだ」
これには成政を認めた者たちは泣きそうになる。敵対している酒井もぐっと来るものがあった。
「殿と皆の期待に応えたいと存じます」
涙を拭った成政ははっきりと全員の前で宣言した。
酒井と大久保の派閥以外は成政を認めている。
それに家康も信頼していた。
「そのために、武田家の進攻を止めたいと思います」
◆◇◆◇
「佐々様。黒羽組の編成、終わりました」
評定の後、榊原康政に告げられた成政は「本当か!?」と嬉しそうに言う。
「いやあ、ありがたい。榊原殿のご尽力が無ければ難しかっただろう」
「買いかぶり過ぎますよ。でもまあ、きちんと五百人の部隊ができたので、佐々様に見てもらいたいです」
康政が案内して、黒羽組全員がいる場へ向かう成政。
そこには屈強な若者がずらりと揃っていた。
その近くには本多忠勝がいた。
「おお、本多殿も! ご苦労掛けましたな」
「……いや別に」
「何言っているんだ。一番貢献したのはお前じゃないか」
康政が笑って言うと、忠勝は「言うな」と片目を閉じた。
どうやら気恥ずかしいようだった。
成政は「ありがとう」と二人に頭を下げた。
「一応言っておきますが、全員初陣をしております。戦場を知っている武士です」
康政の説明を聞きながら黒羽組の面々を見る成政。
そして「実際に戦に出ないと分からないな」と真面目な顔になった。
「……佐々殿、一つ訊きたい」
「うん? 一つと言わずなんでも訊いてくれ、本多殿」
「この黒羽組をもってして、武田家に勝てるのか?」
徳川家において戦いの中で成長していった忠勝。
だからこそ、武田家の強さをひしひしと感じていた。
今のままで勝てるのか、不安を抱えている。
「勝つ方法は一つしかないな」
成政は忠勝と康政、そして黒羽組の面々に言い聞かせた。
今まで考えていた戦略と未来知識を併せ持って、これしかない方法を考えついた。
「武田信玄を戦場で討つ。それしか徳川家を救う方法はない」
◆◇◆◇
そう断言するものの、徳川家が負けたとしても、生き残ることは分かっていた。
忠勝や康政に大きいことを言いたかったわけでもない。
ただ自分のやり方ならば武田信玄を討てる可能性があった。
「三方ヶ原はここか……」
成政は一人、遠江国の三方ヶ原にいた。
まだ戦場になっていないとはいえ、武田信玄がここに陣を敷くのは明白だった。
流石に地の利を取るのが得意なのだろうと成政は背筋の凍る思いだった。
「伏兵を置くとすれば……もっと東に構えたほうがいいか?」
ぶつぶつと独り言を言いながら、馬を歩かせる成政。
彼が狙っているのは――桶狭間である。
大将を狙った、一撃必殺の策だ。
「どうせ死ぬなら、首をくれ――武田信玄」
暗い感情を持ちつつ、成政はその場を後にした。
いずれ起こる大戦。今はまだ静かなままだ。
◆◇◆◇
武田家の動きも気になるが、織田家や畿内の様子も気になっていた。
自分の屋敷に戻った成政は専属の忍びである、鰻から仔細を聞いていた。
横山城の城番である木下藤吉郎が、浅井家と本願寺の連合軍を撃退した。まあ奴ならばできるだろうと成政は判じた。戦力差があっても、あれは一廉の武将になっている。
伊勢長島の攻略は上手くいっていないらしい。西美濃三人衆の氏家が討ち死にしたと聞く。
あれはなかなか落ちないだろうと成政は未来知識で分かっていた。そして相当血を見ないと駄目だとも。
次の織田家の動きを考えると、武田家を倒すことは必須だった。
畿内と東海道の経済力を考えると、月とすっぽんだ。なるべく早く、一大経済圏を創らねば――
「報告は以上になります」
「ああ、ご苦労であった」
鰻が去ると、成政は腰を上げて縁側の方へ向かう。
今はすっかり夜更けとなっていた。空に浮かぶ月が恨めしいほど綺麗だった。
「お前さま……また悪巧みをしているのですか?」
後ろから不安げな声が聞こえる――振り返らずにはるだな、と成政は分かった。
「はる……ここに座りなさい」
「はい……」
夫婦二人で縁側に座る。
酒も肴もなく、雰囲気は良くない。
むしろ居心地の悪さを感じられる――
「はる。私は――嫌な男だよ」
成政ははるの顔をじっと見つめて、少し疲れたように言う。
そんな愛した人である成政の可哀想な顔を見て、はるは心が締め付けられる思いだった。
どうにか癒してあげたい。
悩みを取り除いてあげたい。
「お前さま。私は会えて幸せです」
「いい暮らしができているからか?」
「そんなんじゃありません。お前さまと一緒にいることが幸せなのですよ」
成政ははるの顔から眼を逸らして「酔狂な女だ」と笑った。
「ある意味不幸なのかもな。私を好いてしまったことは」
「お前さまは、どうしてそんなにも……」
はるは、勇気を出して、一番聞きたかったことを――
「お前さまは、何者ですか? 松千代丸のときもそうでした。どうして――」
そこまで言って、はるは口を噤んだ。
驚きのあまり、言葉が出なくなったのだ。
成政は絶望していた。
まるで極寒の夜に放り出された捨て子のような――孤独を感じさせる顔だった。
「お、お前さま……」
「…………」
成政は沈黙のまま、その場を後にした。
残されたはるは、言わなければ良かったと深く後悔した――
それまで成政はあの上杉謙信と交渉を続けていた。結果として同盟を結ぶことはできた。春先に出兵することも確約してくれた。
しかし、徳川家は信濃国を不可侵とするというのは頭が痛い。そうなると関東に進出するしかないが、強大な北条家がいる。加えて関東管領である上杉謙信もいい顔をしないだろう。
これらのことを包み隠さずに家康に報告した成政。いや、家康以外の家老や侍大将の者がいる評定の間での報告だった。
「申し訳ございません。不甲斐ない結果に終わりました」
成政としては何らかの貢ぎ物で済ませる予定だったので、謝罪の気持ちでいっぱいだった。
けれども、家康は「私からして見れば上首尾なのだが……」と困惑している。
「何故、そのようにかしこまる?」
「同盟を結んでいても、近ければ軋轢が生じます。武田家のように……」
「……なるほどな。そなたの言わんとするところ理解した」
上杉家が次の相手になるかもしれない可能性を作ってしまった。それを成政は謝っているのだ。
「されど、佐々殿は上手く話をまとめたと思いまする」
思わぬ援護だった。そう発言したのは家老の石川数正である。
「数正! 何を言うか!」
目を剥いて怒ったのは成政と折り合いの悪い酒井忠次だ。それを冷静に「私では上手くいかん」とさらに認めるようなことを言った。
「もう良いではないか。佐々殿は優れた方だ。徳川家に必要な方だ。酒井殿も分かっているはずだ」
「……それは認めよう。殿の前でもあるからな」
「外様であろうとも、佐々殿は我らの味方。徳川家に有益をもたらすのなら、いがみ合うのはやめたほうがいい」
そして石川は「今まで申し訳ない」と頭を下げた。
それに追従するように侍大将の数名も倣った。
他の家老たちが呆気に取られる中、成政の心に熱いものが芽生えつつあった。前世において、両親から認めてもらえなかった。今でも自分を毛嫌いする者がいる。
だけど、嫌われていた者から再評価されて、認められるという経験は初めてだった――厳密に言えば利家がいるが成政は気づかなかった――だからだろう、自然と涙が浮かんだ。
「良かったな、成政」
「殿に見苦しいところを……」
「良い。良いのだ」
これには成政を認めた者たちは泣きそうになる。敵対している酒井もぐっと来るものがあった。
「殿と皆の期待に応えたいと存じます」
涙を拭った成政ははっきりと全員の前で宣言した。
酒井と大久保の派閥以外は成政を認めている。
それに家康も信頼していた。
「そのために、武田家の進攻を止めたいと思います」
◆◇◆◇
「佐々様。黒羽組の編成、終わりました」
評定の後、榊原康政に告げられた成政は「本当か!?」と嬉しそうに言う。
「いやあ、ありがたい。榊原殿のご尽力が無ければ難しかっただろう」
「買いかぶり過ぎますよ。でもまあ、きちんと五百人の部隊ができたので、佐々様に見てもらいたいです」
康政が案内して、黒羽組全員がいる場へ向かう成政。
そこには屈強な若者がずらりと揃っていた。
その近くには本多忠勝がいた。
「おお、本多殿も! ご苦労掛けましたな」
「……いや別に」
「何言っているんだ。一番貢献したのはお前じゃないか」
康政が笑って言うと、忠勝は「言うな」と片目を閉じた。
どうやら気恥ずかしいようだった。
成政は「ありがとう」と二人に頭を下げた。
「一応言っておきますが、全員初陣をしております。戦場を知っている武士です」
康政の説明を聞きながら黒羽組の面々を見る成政。
そして「実際に戦に出ないと分からないな」と真面目な顔になった。
「……佐々殿、一つ訊きたい」
「うん? 一つと言わずなんでも訊いてくれ、本多殿」
「この黒羽組をもってして、武田家に勝てるのか?」
徳川家において戦いの中で成長していった忠勝。
だからこそ、武田家の強さをひしひしと感じていた。
今のままで勝てるのか、不安を抱えている。
「勝つ方法は一つしかないな」
成政は忠勝と康政、そして黒羽組の面々に言い聞かせた。
今まで考えていた戦略と未来知識を併せ持って、これしかない方法を考えついた。
「武田信玄を戦場で討つ。それしか徳川家を救う方法はない」
◆◇◆◇
そう断言するものの、徳川家が負けたとしても、生き残ることは分かっていた。
忠勝や康政に大きいことを言いたかったわけでもない。
ただ自分のやり方ならば武田信玄を討てる可能性があった。
「三方ヶ原はここか……」
成政は一人、遠江国の三方ヶ原にいた。
まだ戦場になっていないとはいえ、武田信玄がここに陣を敷くのは明白だった。
流石に地の利を取るのが得意なのだろうと成政は背筋の凍る思いだった。
「伏兵を置くとすれば……もっと東に構えたほうがいいか?」
ぶつぶつと独り言を言いながら、馬を歩かせる成政。
彼が狙っているのは――桶狭間である。
大将を狙った、一撃必殺の策だ。
「どうせ死ぬなら、首をくれ――武田信玄」
暗い感情を持ちつつ、成政はその場を後にした。
いずれ起こる大戦。今はまだ静かなままだ。
◆◇◆◇
武田家の動きも気になるが、織田家や畿内の様子も気になっていた。
自分の屋敷に戻った成政は専属の忍びである、鰻から仔細を聞いていた。
横山城の城番である木下藤吉郎が、浅井家と本願寺の連合軍を撃退した。まあ奴ならばできるだろうと成政は判じた。戦力差があっても、あれは一廉の武将になっている。
伊勢長島の攻略は上手くいっていないらしい。西美濃三人衆の氏家が討ち死にしたと聞く。
あれはなかなか落ちないだろうと成政は未来知識で分かっていた。そして相当血を見ないと駄目だとも。
次の織田家の動きを考えると、武田家を倒すことは必須だった。
畿内と東海道の経済力を考えると、月とすっぽんだ。なるべく早く、一大経済圏を創らねば――
「報告は以上になります」
「ああ、ご苦労であった」
鰻が去ると、成政は腰を上げて縁側の方へ向かう。
今はすっかり夜更けとなっていた。空に浮かぶ月が恨めしいほど綺麗だった。
「お前さま……また悪巧みをしているのですか?」
後ろから不安げな声が聞こえる――振り返らずにはるだな、と成政は分かった。
「はる……ここに座りなさい」
「はい……」
夫婦二人で縁側に座る。
酒も肴もなく、雰囲気は良くない。
むしろ居心地の悪さを感じられる――
「はる。私は――嫌な男だよ」
成政ははるの顔をじっと見つめて、少し疲れたように言う。
そんな愛した人である成政の可哀想な顔を見て、はるは心が締め付けられる思いだった。
どうにか癒してあげたい。
悩みを取り除いてあげたい。
「お前さま。私は会えて幸せです」
「いい暮らしができているからか?」
「そんなんじゃありません。お前さまと一緒にいることが幸せなのですよ」
成政ははるの顔から眼を逸らして「酔狂な女だ」と笑った。
「ある意味不幸なのかもな。私を好いてしまったことは」
「お前さまは、どうしてそんなにも……」
はるは、勇気を出して、一番聞きたかったことを――
「お前さまは、何者ですか? 松千代丸のときもそうでした。どうして――」
そこまで言って、はるは口を噤んだ。
驚きのあまり、言葉が出なくなったのだ。
成政は絶望していた。
まるで極寒の夜に放り出された捨て子のような――孤独を感じさせる顔だった。
「お、お前さま……」
「…………」
成政は沈黙のまま、その場を後にした。
残されたはるは、言わなければ良かったと深く後悔した――