第83話泣いた利家と笑った成政

文字数 3,270文字

「俺ぁもう、織田家に戻れないのかな……」

 利家が肩を落として清州城の長屋を通り過ぎようとしていると、まだ具足姿の藤吉郎が「前田様!」と声をかけてきた。彼はてっきり利家の再仕官が叶ったものだとばかり思っていたが、落ち込んだ顔を見て違うと悟った。

「前田様……まさか、再仕官が……」
「そのとおりだよ。殿はあの程度では認められないって」
「馬鹿な! 一人で首級三つは大手柄ではないですか!」

 落ち込む利家の代わりに憤る藤吉郎。
 そのまま清州城へ向かおうとする――利家が肩を掴んだ。

「馬鹿な真似は止せ。殿に抗議でもするつもりか?」
「そ、そのようなことはしません。せめて柴田様か森様に――」
「二人の迷惑になるだけだ……それより、藤吉郎。少し話せるか?」

 利家は歩き出す。藤吉郎は怪訝に思いながらも後をついて行った。
 長屋の敷地を出ると、戦勝祝いの兵や武将たちが大騒ぎしていた。それもそうだろう、二万五千の大軍勢を僅かな手勢で大将首を挙げて撃退したのだから。

 酒を浴びるように飲む者。腹が膨れるほど食べる者。周りと手柄自慢する者。
 まるで熱田の祭りのようだと利家は思った。そして彼の兄である利玄のことを思い出した。いつも出店で何らか買ってくれた飄々とした兄を。

「それで、それがしに話とは?」
「さっき言ったとおり、俺は織田家の武将に戻れなかった。つまり素浪人だ。だから――お前とねね殿の媒酌人はできん」

 再仕官ができなくなって二番目に思い浮かんだことはそれだった。
 利家は藤吉郎に深く頭を下げて謝罪した。

「申し訳ない。他の人に頼んでくれ」
「……それがしは、前田様以外に頼むつもりはありません」
「そこをなんとか曲げて頼む」

 頭を下げたままの利家に、藤吉郎は静かに告げた。

「ならばそれがしは――婚姻しません」
「……何を言いやがる?」
「前田様が再仕官するまで、それがしは婚姻しないと言っているのです」

 顔を上げた利家。その目に映るのは、覚悟を決めた藤吉郎。

「何、ねね殿はまつ殿と親しい間柄。それがしがきちんと説明したら待ってくださります」
「お前、本気なのか?」
「無論です。それにそれがしは信じています。前田様は必ず、織田家に帰参できると」

 利家の胸にこみ上げるものが生まれた。
 藤吉郎は「それがしと話すより、急いで戻られたほうが良いのでは?」と言う。

「まつ殿が待っておられますよ」

 そう。織田家に帰参できなくなって真っ先に思い浮かんだこと。
 それは自分の妻、まつへどう説明するべきかということだった。


◆◇◆◇


「そう、ですか。再仕官できなかったのですね……」
「すまない。また苦労をかけることになるな」

 利家はありのままをまつに説明した。
 まつは利家が帰ってくるまで、ひたすら座って待っていた。娘の幸の世話はもちろんしていたが、それ以外は何も食べず、うたた寝すらしなかった。

 ようやく戻ってきた利家に「おかえりなさいませ」と告げて、ほんの少し気を緩めることができた。少しだけなのは、油断すると大泣きしてしまいそうだったからだ。それは武家の妻としてよろしくないことだった。

「今後はどうなさいますか?」
「……このまま猟師を続けるってのも、良くないしな」

 利家は自分でもどうしていいのか、自分がどうしたいのか、まるで分からなかった。
 誰かに教えてほしい気分だった。
 誰かに導いてほしい気分だった。

「まあ、まつ。俺は――」
「利家。私の希望とあなた様の希望は違いますよ」

 まつは無表情で利家に言う。
 あまりに真剣な面持ちに利家は出かけた言葉を飲み込んだ。

「私はこのまま、静かに暮らしたいです。利家が戦場に出るのは、嫌です」
「…………」
「もしも利家が死んでしまったら、私は生きる気力を失います」

 後を追って死ぬと言っているのは、鈍感な利家でも分かった。
 まつは続けて「でも、利家が生き生きしないのはもっと嫌です」と言う。

「利家が武士だった頃は、毎日楽しそうでした。やることがたくさんあって大変だと愚痴を言いながらも、それが面白くて仕方ない様子でした」
「それは否定しねえよ……」
「だから私は、利家が織田家に帰参したほうが、あなた様にとって一番良いことだと思います」

 利家はここでようやく、自分がどうして織田家に拘っているのか分かった。
 父や兄に申し訳ないと思う気持ちやまつに楽な暮らしをさせてあげたいのもある。
 でも最も大事なことは、利家が自分らしく生きるためには、織田家に所属することが重要だったのだ。

 大切な主君。
 大事な仲間。
 そして――好敵手の成政。

「……なあ、まつ」
「どうしました? 利家」
「俺、やっぱり織田家に帰参したいよ」

 利家の目から涙が数滴落ちた。

「俺が俺らしくあるためには、織田家の武士じゃないといけないんだよ」
「……そうですね」
「だから、どんな苦労をしても、織田家に戻りたい」

 まつは泣いた利家を正面から抱きしめた。
 慈しむように、慰めるように。


◆◇◆◇


「そうか。佐々家を継いで松平家に行くんだね」
「そうです。今までお世話になりました」

 桶狭間の戦いの翌日。
 成政は村井貞勝の屋敷に来ていた。
 正式に佐々家を継ぐことや松平家に行くことの報告をするためだった。

「寂しくなるね。君はいろいろと目立つ人だったから」
「私自身は控えめだと思っておりますが」
「ああ。訂正しよう。君の好敵手と一緒だと目立つね」

 一緒にされるのは本意ではなかったが、昔と比べると不愉快ではないのは、何故か愉快に思えた。
 成政は「否定できませんね」と笑った。

 村井と成政の前には膳が置いてある。見た目が少々悪いが、味は自分好みだと成政は思っていた。

「ところで、私に聞きたいことがあるんじゃないのかい?」
「やっぱりあなたは何でもお見通しなんですね」
「少し考えれば分かることだよ。むしろみんなは考えなさすぎだね」

 成政は「岡崎――三河国を豊かにするにはどうしたらいいですか?」と素直に聞いた。

「戦を続けても勝てるように、豊かな国にしたいのです」
「大きく出たね。ま、そうじゃないと今川家には勝てないか」
「三河国は海に面していて、発展できる土地だと思います」

 村井は「案が無いわけではない」と言う。

「だがそれをするには、いくつか条件がある。まずは君が重職に就くことだ」
「…………」
「ふふ。当たり前のことを言ってしまったかな?」

 村井はそれから「手っ取り早く就ける方法がある」と真剣な顔で言った。

「松平家の縁者を嫁に貰うことだ」
「……それは」
「正室だよ。これもまた当たり前だけどね」

 その考えが頭によぎらなかったとは成政は言えない。
 でもすぐに却下した。その理由は――

「意地悪なことを言わないでください。私の正室ははる殿だけです」
「……そんなにはるが好きなのかい?」

 成政は照れ隠しでなあなあに済まそうと思ったが、村井の表情を見て、これは本音で話さないといけないなと思い直した。

「ええ。大好きです。はる殿以外考えられないくらいに――」
「――成政様!」

 突然、襖が開いて村井の娘で成政の婚約者、はるが入ってきた。
 そしてそのまま成政に抱きつく。

「は、はる殿!? こ、これは……」
「私は知らなかったよ。でも、この料理ははるが作ったんだ。だからこっそりとどこかで見ているとは思っていた」

 村井はくすくす笑いながら「祝言の準備、早くしないとね」と笑った。

「挙げる前に孫ができるかもしれないしね」
「そ、そのような……」

 村井の言葉に返す余裕がない成政。
 嬉し涙を流すはるを見て、とりあえず頭を撫でた。

「成政様……」
「はる殿。私は正直、女性に慣れていない」

 成政ははるに告げた。

「だから配慮に欠けた行ないをしてしまうかもしれない。それでもいつも思いやりを持つようにする。それでも構わないか?」
「成政様。私はそんな不器用なあなたが好きになったのです」

 はるは成政から離れて、両手を床に置いた。

「不束者ですが、よろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ!」

 笑った成政の顔を見て、村井は安心した。
 娘はきっと幸せになると。
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