第48話猿顔の男

文字数 3,094文字

「よう、一若。殿が……って見慣れない顔だな」

 利家が藤吉郎と初めて出会ったのは、所用で小者頭の一若に会いに行ったときだった。
 がらりと戸を開けたとき、一若が納戸で帳簿を書き込んでいる後ろで、忙しなく物を整理していた藤吉郎が目に入ったのだ。

「これは前田様。こちらにいるのは、最近小者になった木下藤吉郎です」

 帳簿と筆を置き、深く頭を下げる一若。
 紹介された藤吉郎はその場に平伏する。

「それがし、木下藤吉郎にございます! 以後お見知りおきを!」
「ああ、俺は前田利家だ。よろしくな……そうだ、一若。藤吉郎を借りていいか?」

 利家の言葉に藤吉郎は顔をあげた。
 その顔を見て、利家は猿顔だなと思った。

「実は殿が鷹狩りに行くのだが、人手が足りない。それで一人、手伝いがほしい」
「ええ、構いませんが……」

 一若の返事を聞いて「よし。行こう藤吉郎」と利家は言った。
 藤吉郎は素早く「かしこまりました!」と元気よく頷いて利家と共に納戸から出た。

「藤吉郎はどういった経緯で織田家に仕えた?」
「一若とは幼き頃からの友人で、その縁で仕官しました」
「へえ。それまでは武家働きしていたのか?」

 廊下を歩きながら会話していると「おい利家。人手は足りたのか?」と前方の戸の前で待っていた成政に声をかけられる。

「ああ。こっちの小者の藤吉郎が――」
「なに!? 藤吉郎だと!?」

 それまで戸に背をもたれていた成政が、藤吉郎を見て思わず大声を出した。
 利家と藤吉郎はきょとんとしている。

「あの、それがしがなにか……?」
「い、いや、なんでもない……」

 成政は目の前にいる、猿顔で小柄な男が、あの豊臣秀吉だとは思わなかった。
 同じく前世の記憶を持っている利家だったが、豊臣秀吉自体は聞いたことがあったが、どんなことをしたのかは覚えておらず、またそれ以前の名が『木下藤吉郎』であるなどまったく知らなかった。

 成政はじっと藤吉郎を見つめる。
 藤吉郎は何故、目の前の武将が自分を見つめているのか、疑問に思っていた。ちょっと変な人だなと思ってしまう。

「……佐々成政だ。以後よろしく頼む」
「はあ……」

 藤吉郎は何がなんだか分からないまま、名乗った成政に頭を下げた。
 すると「利家! 成政! 仕度は済んだか!」と大きな声で言いながら、信長が外に出てきた。

「と、殿……仕度は整いました」
「うん? なんだその顔は。成政、気分でも悪いのか?」

 心配そうに声をかけた信長だったが、咄嗟に跪いていた藤吉郎を見つけて「なんだその男は」と指を指した。

「こちらは木下藤吉郎。最近小者になった者です」

 利家の紹介を受けて「木下藤吉郎にございます!」と当人が言う。
 信長は藤吉郎の顔を見て「まるで猿みたいだな」と笑った。

「ははっ。以前仕えていたところでは、猿と呼ばれておりました!」
「そうか。ならば俺も猿と呼ぼう!」

 信長はにっこりと笑って「なかなか愉快な奴だ」と言う。

「こやつも鷹狩りに連れて行くのか?」
「左様にございます」
「であるか。猿、貴様の働きを見せてもらおう」

 そう言って「成政、行くぞ」と歩き出す。
 成政は何も言わずに同行する。

「あれが殿ですか……」
「まあ最近仕えたばかりでは顔も知らないか」

 利家は藤吉郎を立たせて「まず、馬屋にいくぞ」と言う。

「かしこまりました」
「殿が来る前に、なるべく毛並みが良い馬を選ばないとな。最近めっきり寒くなって、馬に元気が無くなっているのが難点だが」

 藤吉郎は「殿が来る前に、それがしが手入れしましょうか?」と提案してきた。
 利家は怪訝な顔で「できるのか?」と問う。

「武家に仕える前は、馬の世話をしていたことがあります」
「なかなか多才だな。よし、だったら急ぐか」


◆◇◆◇


 利家と藤吉郎が馬屋に向かっていた頃、信長は城の廊下を歩きながら成政と話していた。

「叔父上を殺した下手人は、お前の兄が討ったそうだな」
「そのとおりにございます」
「……なかなか上手くやったものだ」

 汚いことを手放しに褒められても、成政はあまり嬉しいとは思わなかったが、一応「ありがたき幸せ」と答えた。

「那古野城の城主は林秀貞にする」
「……よろしいのですか? 林様は弟君の信行様に組しておりますが」
「仕方ないだろう。奴は家老であるし、信盛は手元で活躍してもらいたい」

 信長が突然、足を止めて「先ほど様子がおかしかったが」と成政に言う。

「猿と何かあったのか?」
「…………」

 成政には選択肢があった。
 今の内に藤吉郎を殺めるという選択。
 もう一つはそのままにしておく選択。

 斉藤利政に言われたことを成政は思い出した。
 自分の本質は逃げであると。
 自分の未来知職を鑑みれば、このときに殺せば史実どおりの末路にならず済む。
 しかし、今殺してしまえば、史実どおりに進まない。

「どうした? 何故黙っている?」

 信長の声で現実に戻る。
 成政はほとんど反射的に「なんでもありませぬ」と答えた。

「ただ猿にそっくりだったので、驚いただけです」
「であるか。あやつが猿と人の合いの子だとしても納得がいくな」

 成政は結局、ここでも決断しなかった。
 やはり利政の言うとおり、彼の本質は逃げだった。

 その後、信長が狩り衣、動きやすい服装に着替え、成政と小姓たちを引き連れて馬屋に向かうと、そこには毛並みの整った馬がずらりと並んでいた。

「いつもと比べて、馬がよく見えるな……利家、猿。お前たちの仕業か?」

 馬屋の傍で跪いていた利家と藤吉郎に信長は訊ねた。

「いえ。俺ではなくこちらの藤吉郎が行ないました。俺は何もしておりません」

 その言葉に藤吉郎は素早く利家を見た。
 自分が前に仕えていた武家では、手柄を奪われるのが日常茶飯事だった。
 今回の馬の件もそうだと思っていた。
 しかし利家はそれをしなかった。

 実際のところ、利家の男気ではなく、単純に藤吉郎が行なったとありのまま報告しただけだった。さらに言えば、この程度のことを手柄とは思わなかった。
 この誤解が、藤吉郎が利家への尊敬の念を抱くきっかけとなった。

「ほう。猿、お前やるじゃないか」
「あ、ありがたき幸せにございます!」
「お前を馬屋番にする。馬の手入れを任せよう」

 仕官して早々、ただの下働きの小者から、馬屋番に抜擢される。
 大出世とまでは言わないが、かなりの躍進であった。

「そ、それがしに、馬屋番を任せていただくとは! このご恩、忘れませぬ!」
「で、あるか。それでは鷹狩りに向かう!」

 信長の命令で、皆が動き出す。
 藤吉郎も手早く馬を馬屋から出した。
 そのとき、利家に深く頭を下げるのを忘れない。

 利家はどうして藤吉郎が自分に頭を下げたのか、まるで分かっていなかった。
 しかし分からないまま、笑顔で応じた。
 藤吉郎はますます感激した。


◆◇◆◇


 織田伊勢守家は尾張上四郡を支配する名家である。
 その当主の信安は、信長を脅威と見なし、戦々恐々とする日々を送っていた。
 そんな中、息子の信賢が策を提案してきた。

 武具と兵糧の買い占めである。
 これは信長の急所を突く策であった。
 商業政策を行なう信長に対しての妨害。

「信長など、怖れる必要はありません」

 信賢はそう家臣に言い聞かせていた。
 信友を破ったからとはいえ、兵数はまだまだ上である。
 有利であるのは変わりなかった。

「それに、もう一つの策も実行しております」

 信賢は元々、裏で画策することが好きだった。
 名家に相応しくないほどの汚い手段が好きだった。

「信長の弟、信行。彼に謀叛を起こしてもらいましょう」

 尾張国の覇権を握る戦いは、これから苛烈になっていく。
 骨肉の争いが巻き起こる――
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