第59話裏切りは甘美なもの

文字数 3,188文字

 利家と成政が各々の主命をこなしていたとき、織田伊勢守家の居城で騒動が起きた。
 否、騒動と言うより政変と言ったほうが正しい。
 信賢が当主の信安、つまり自身の父親を追放したのだ。

 理由は信安が次男の信家に、跡を継がせようと画策したとされるが定かではない。
 問題は信安よりも知恵と策謀に長けた信賢が当主となったことだ。
 信長はすぐに主だった家臣を集め、評定を開いた。

「信賢は以前より武具や兵糧の買い占めを行なっています。しかし我らの商業政策が功を成し、上手くいっておらぬようです」

 丹羽長秀の報告に信長は「であるか」と応じた。
 明るい報告であったが、険しい顔は崩さない。

「兵力は依然として敵方のほうが上です。佐々の信清調略が上手く行けば、不利ではなくなりますが」

 佐久間信盛の冷静な物言いにも信長は頷くだけだった。
 それを見た、同席している森可成と池田恒興は顔を見合わせる。

「殿、何か問題でもありますか?」
「信賢の動きが不気味すぎる。何か見落としがないか……」

 恒興の問いに信長は静かに答えた。
 この場にいる四人も信賢の狙いを考え始める。

「信賢の狙いは……殿の首でしょうね」

 可成の至極当然な答えに佐久間は「戦で討ち取る以外の方法はあるのか?」と疑問を投げかける。

「もし戦以外で討ち取るとすれば、どんな方法がある? 暗殺か? それとも家臣を唆して不意討ちでもするのか?」
「まさか……松平家ではあるまいし、そんなこと、俺はさせません」

 可成はすぐさま否定したものの、もしそうだとしたら警戒しておくべきと考えた。
 恒興が言いづらそうに「その、信勝様ですが……」と言い出した。

「二年前の戦の前に、信賢と会っていたと記憶しております。もし焚きつけられて戦を仕掛けてきたら、どうしますか?」
「……弟がまた謀叛を起こすと?」

 信長の厳しい声に場が緊張に包まれる。
 恒興は「……あくまでも、可能性の話です」とだけしか言えなかった。

「何かしらの対策は必要だと思います」
「……できれば、弟は殺したくない。母上が悲しむし、あいつは俺の右腕になれる男だ」

 身内に甘いところがあるのはこの場にいる全員が知っていた。
 また主君の弟を殺すなど家臣としてしたくはなかった。

「だが信勝が謀叛を企んでいるとしたら――」

 信長は鋭い目つきのまま、言った。

「――この手で成敗しなければならぬな」

 その声音はどこまでも冷たいものだった。
 家臣たちは底冷えするような寒気を感じた。
 それが信長の覚悟であると分かっていてもなお、凍えるものであった。


◆◇◆◇


 成政が清洲城に帰還すると、信長に信清を味方にしたことを報告した。
 信長が「よくやった!」と手放しで褒める。

「これで信賢に対抗できる」
「戻る途中で聞きましたが、信賢が当主の座に就いたと」
「お前も聞いたか」

 成政は「信清殿は味方をすると言いましたが、信賢が交渉してくる可能性がありますね」と進言した。

「いかがなさいますか?」
「俺の姉を信清に輿入れさせる。それならば信賢が何かしても関係なかろう」

 成政は「姉君を輿入れですか」と驚いた。

「なんだ。何か不満か?」
「いえ。殿がお決めになったことに意見などありません」
「であるか。ではご苦労であった。使者は別の者にする。ゆっくり休め」

 成政は下がろうとするが、不意に「道三様のところに行ってよろしいですか?」と問う。

「舅殿? まあいいだろう」
「ありがとうございます」
「何か聞きたいことでもあるのか?」

 成政は「あの方から学びたいことは山ほどあります」と慎重に答えた。

「呆けたとはいえ、たまに目覚めることはあるからな」

 信長は少しだけ感心していた。
 成政の向学心は昔から知っていたが、呆けている人間からも学び取ろうとするのは、些か貪欲すぎるとも感じていた。

 信長の前から退席した成政は道三の元へ向かった。
 部屋に入ると、道三は侍女たちに囲まれて世話を見られていた。

「腹が減ったなあ。飯はまだか?」
「先ほど、お食べになられました……」
「そうか……おっ? おぬし見覚えあるな」

 成政の顔を見て喜ぶ道三。
 成政は平伏して「佐々成政と申します」と自己紹介した。

「佐々成政か。良い名じゃな! それで、わしに何の用だ?」
「用と言うほどのことではありませんが……」
「その方ら、下がれ」

 侍女たちはほっとした表情で素早く部屋に外へと出て行く。
 成政は「もし、肉親が謀叛を企んでいたら、どうなさいますか?」と問う。

「うん? 起こす前に殺すしかあるまい」
「改心はできないのでしょうか?」
「一度なら許せば良かろう」

 道三は呆けた目で成政を見つめた。
 成政は目を逸らさずに見つめ返した。

「だがな。人を裏切った者は、成功しても失敗しても、また裏切るぞ」
「それは、何故でしょうか?」
「タガが外れるのもあるがな。裏切りとは甘美なものなのだ」

 裏切りは甘美なもの。その考えが飲み込めない成政。
 彼が若いこともあるが、未だに誰かを裏切ったことが無いのが原因だった。

「そうだな……おぬしは人を殺すのは嫌か?」
「好んで殺したことはありません」
「手柄を立てることに喜びを感じたことはあるか?」
「…………」

 何も言えなくなってしまった成政を満足そうに見つめる道三。

「裏切りは文字通り、裏をかくもの、人を騙すものだ。手柄を立てる快感とは違うが、人を驚かせる快楽と同じ。その味を知ってしまえば、もう一度味わいたくなる」
「道三様は、何度も味わいましたか?」

 道三は「ああ。何度も味わった」と悪気もなく答えた。

「だが結局、わしも裏切られてしまった」
「……悔しいですか?」
「ああ、悔しい。無念だ」

 道三は成政に「わしだって、人を裏切りたくなかった」と本音を吐露した。

「だがそうしないと生きられなかった。ここまで生き抜くことができなかった」
「でも後悔しているんですね」
「まあな……」

 成政は目の前の老人に心底同情した。
 自分もいずれ、人を裏切ることがあるのだろうか。
 そうなったら、何度も裏切るような人間になるのだろうか。

「ところで、おぬしは誰だったかな?」
「……佐々成政と申します」


◆◇◆◇


 それからしばらくして。
 浮野を決戦場と決めた信長は、二千の兵を率いて出陣した。
 信賢の兵は三千であり、数においては不利であった。

 出陣の直前、準備が整った利家は城内でうろうろしていた木下藤吉郎を見つけた。
 どこか緊張しているようで様子がおかしかった。

「藤吉郎。どうしたんだ?」
「あ! 前田様、これはお見苦しいところを……」

 跪く藤吉郎に「緊張しているのか?」と問いかけた利家。
 身体ががたがた震えていた。

「お恥ずかしい話ですが、それがし、戦働きは苦手で……」
「そうなのか。まあ人には得手不得手あるからな」

 ぽんと肩を叩いて「あまり気負いすぎるなよ」と笑う利家。

「まずは生き残ることが大事だぜ」
「……しかし、出世するには手柄を立てねば」
「出世より命だろ?」

 藤吉郎は不思議そうに「前田様は出世したくないのですか?」と問う。

「てっきり、そのために鍛えているのかと」
「俺は殿が尾張国統一してくれれば、それでいい」

 藤吉郎は顔を赤くして「己が浅ましく思えます……」と言う。

「出世のために戦うのが恥ずかしくなりました」
「そんなことはない。出世のために戦うのは、人として当然だ」

 利家は「むしろお前のほうが真っ当だぜ」と笑った。

「互いに死ぬまで生きようぜ」
「ははっ。承知しました!」

 利家と別れた藤吉郎は不思議に思った。
 どうして自分を励まして認めるようなことを言うのだろうか?
 大して地位が高くない自分を。

 利家にしてみれば、下の者に優しくするのは当然だと思っていた。
 ただそれだけのことだが、藤吉郎はいつも優しくしてくれる利家のことを尊敬していた。
 いつの間にか、藤吉郎の身体の震えは止まっていた。
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