第53話稲生原の合戦

文字数 3,315文字

 稲生原の名塚砦に信行側の武将、林美作守が攻めかかったという報告が信長の下に入った。
 信長は軍勢をまとめて出陣を開始した。
 ほぼ馬廻り衆だけで、その数七百ほどだった。

 対して、信行の軍勢は千七百である。
 内訳は柴田勝家が一千、林美作守が七百だった。
 素人目にも信長が不利だと分かる戦力差である。

 清洲城で戦仕度をしていた成政。
 そんな彼に話しかける者がいた。

「小僧! わしの銭を盗ったか!?」

 ぎゃあぎゃあ盗られたと騒いでいるのは、美濃のまむし、斉藤道三であった。
 成政はこれが認知症の症状の一つ、物盗られ妄想であると知っていた。
 小姓たちが辟易する中、彼だけは辛抱強く世話をしている。

「道三様。あなたの銭を私は盗っておりませんよ」
「なに!? では何故、わしの銭が無くなった!?」
「一緒に探しますから、自室でお待ちください」

 道三は「本当におぬしは盗っていないのか?」と疑わしい顔で見つめている。
 成政は笑顔で「はい。もちろんです」と応じた。

「ふむ。では部屋で待っておる」
「……戦が始まるので、すぐには行けません」

 成政は聞こえるかどうかの声で呟いた。
 だが耳に届いていたらしく、道三は「なんだ。戦に行くのか、小僧」と不敵に笑った。

「ええ。道三様は部屋で待っていてくだされば――」
「身内同士の諍いなど、くだらぬな」

 どきりとすることを言われ、成政は道三の顔を素早く見つめる。
 道三は笑みを絶やすことなく「婿殿は勝つぞ」と断言した。

「正統性がある。数の上では劣るかもしれんが、いずれ皆が気づく」
「……何に気づくというのですか?」

 いまいち要領を得ない言い方だったので、成政は訊き直す。
 何か重要なことかもしれないと思ったからだ。

「……わしの銭、どこにもないのう」

 道三は疑問に答えずに、淋しそうに呟いて、そのまま部屋を出てしまった。
 成政はその背を目で追っていたが、もうすぐ出陣だと気づき、急ぎ仕度を整えた。

「道三様の背中……どこか切なそうだったな……」

 道三自身、息子に叛かれて国を追い出された身だ。
 身内同士の戦に何か思うところがあるのだろう。
 成政はそう考えたが、真相は分からない。


◆◇◆◇


 稲生原にずらりと並んだ信長の軍勢。
 森可成、池田恒興、滝川一益などの猛将が、信長の指示した配置に着く。

「利家。心の準備はできましたか?」

 戦が始まる直前、可成が利家に話しかけた。
 隊を率いて戦うのは初めてのことで、少しばかり気負っている利家は「なんだ? 兄い」と言葉数少なく応じた。

「隊を率いるのは訓練でもやったことあるぜ」
「…………」
「なんだその面は。実戦と訓練は違うって言いたいのか?」
「……そうではありません。あなたは、柴田殿と親しかったはずです」

 それを考えないようにしていた利家は、動揺こそしなかったものの、可成に向かって「ああ。親しいと言うよりは慕っていたって感じだな」と言う。

「それがどうしたんだよ」
「情で腕が鈍らなければいいと思いましてね」
「はっ。余計なお世話――って言いたいけどよ。ありがとな、兄い」

 利家は遠くのほうを見つめた。
 その方角から、柴田の兵がやってくる。

「俺ぁ柴田様のことを尊敬している。あの人は真の武人だ」
「……そうですね。俺もそう思います」
「だから、戦わなきゃいけねえんだろうな」

 利家の意外な言葉に、可成は感心したように「ほう」と呟いた。

「主家――殿に逆らったんだからよ。どんな経緯があってもさ、けじめ取らねえといけねえんだろうな」

 単純だが真理を突いた言葉である。
 可成もその考えに頷いた。

「目は覚めているはずだから、俺は柴田様に正しい方向へ目を向けてほしいんだよ」
「…………」
「ガラにもねえかな? 兄い……」

 可成は微笑みながら「よくぞ、覚悟できましたね」と言う。
 また自分の弟分がいつの間にか成長したことにも驚いていた。
 もう自分が説かなくても、答えを見出せている。それは喜ばしいことだった。

「それでこそ、前田利家ですよ」
「ははは。照れ臭いこと言うなよ」
「今回の戦は――かなりの犠牲が出ます」

 可成は笑みを消して、険しい顔になる。
 利家も同じような顔つきになる。

「あなたの兄君――利玄殿も参戦するらしいですね」
「ええまあ。利玄兄も織田家家臣だからな」
「戦の前に、挨拶はしたほうが良いのではないですか?」

 可成がこう言ったのは、何の意図もなかった。
 胸騒ぎもしなければ、予感もしなかった。
 ただ利家を気遣って言っただけだった。

「いいよそんなの。気恥ずかしい」
「ふふ。兄弟とは良きものですね。俺も子供を持つようになってから――」

 可成の言葉が終わる前に、法螺貝が鳴った。
 柴田の兵がやってくるようだ。

「それでは、俺はこれで。生き残ってくださいね」
「ああ。兄いもな!」

 肉親同士、身内同士が戦う、凄惨な戦。
 稲生原での合戦が――始まった。


◆◇◆◇


 信長には勝算があった。
 林美作守は名塚砦攻略に着手している。
 だから初戦の相手は柴田勝家率いる一千の兵のみ。
 鍛えに鍛えた馬廻り衆を持ってすれば、寡兵であっても打ち倒せるかもしれない。
 その後、林美作守の軍勢を迎え撃つ。

 信長はそれができると計算していた。
 柴田や林の兵は農兵――農民の兵だ。
 戦に慣れた者は少ないはずだ。

 だからもし、柴田さえ撃破できれば。
 戦に勝つことができる。
 そう信じていた――

「弓矢で怯ませた後、槍衾で押し進め!」

 その計算は脆くも崩れ去る。
 信長は決して柴田を甘く見ていなかった。
 むしろ尾張国随一の猛将だと認識していた。

 だが、その認識を上回るほど、柴田は戦上手だった。

「悪いな、信長様。わしは信行様を勝たせる。我が身が欠けても、我が身を賭けても!」

 柴田は自ら槍を持ち、前線で戦っていた。
 織田家の猛将、山田治部左衛門を一突きし、討ち果たすと素早く戦の指示を出す。
 もはや稲生原は大混戦となっていた――


◆◇◆◇


「はあ、はあ……なんて戦だ……」

 息を切らしながら、物言わぬ亡骸と化した兵から槍を引き抜く利家。
 何人倒したのか、詳しいことは分からない。
 味方も何人死んだのかも分からない。

「くそ! 殿は無事なのか――」

 一瞬の気の緩み。
 利家は戦の最中に気を緩めてしまった。
 これは利家が未熟というわけではない。
 敵を討ち取った後に訪れる、弛緩した気持ち。
 誰もが陥る前後不覚の油断――

 びっしゅという音。
 利家は凄まじい痛みに襲われる。

「がああああああ!?」

 利家の顔――右目下に矢が刺さった。
 混戦のため、味方はそれに気づかない。

「小姓頭、宮井勘兵衛! その首、もらった!」

 利家に近づくその男――宮井は刀を抜いて、駆けてくる。
 矢が突き刺さったままの利家は対応できない――

「――待て!」

 利家は聞いた。自分を庇う者の声を。
 利家は見た。自分を守る者の姿を――

「……利玄兄?」

 槍で宮井と戦っている、前田家次男、利玄。
 利家は呆然としながら、兄を見ていた。
 必死に弟を守ろうとする兄は。
 今まで見たことないくらい、情熱的で格好良かった。

「どけええええええ!」

 宮井が利玄の胴に蹴りを入れた。
 どたんと倒れる利玄とその上に乗る宮井。

「貴様から、その首――」

 刎ねてくれると言いかけて――止まる。
 怪我を物ともせず、気力で立ち上がった利家が――

「うおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 武器も持たず、宮井に突進した。
 今度は逆に利家が上になった。

「こんのおおおおおおおおおおおおおお!」

 利家は――自分の顔から矢を引き抜いた。
 溢れ出す血を無視して、その血だらけの矢を。
 宮井の口の中に突っ込んで、刺した。

 こぽこぽという音がして、血を噴出す宮井。
 じたばたと暴れるが、やがて事切れる。

「利玄兄! 大丈夫か!?」

 利家が兄の倒れたほうを見る。

「……あー、大丈夫だ」

 利玄は上体を起こして、自分の無事を示す。
 安心した利家は宮井の上から立ち上がり、利玄のほうへ向かう。

「利玄兄、助かった。ありがとう」
「別にいいよ。弟を守るのは――」

 利玄は笑顔で利家に手を振った――

 そのとき、一本の矢が、利家と利玄のほうへ、放たれた――
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