第78話迫る大戦

文字数 3,086文字

 今川義元が二万五千の大軍勢で駿府城から出陣し、尾張国へ迫ってきているという知らせが、清洲城にもたらされた。
 尾張国のほとんどを統一したとはいえ、信長の軍勢は五千に満たなかった。誰もが織田家の敗北であろうと思った――成政と信長、一部の家臣を除いて。

 家老であった平手政秀が眠る政秀寺。
 そこに建てられた斉藤道三の墓。手を合わせて祈る成政。
 最期に立ち会えたのはとても幸せだったと彼は思っていた。
 それくらい多くのものを受け取った――受け継いだ。

「おお。小僧の同輩の……成政だったか」

 政秀寺を出る際、背後から声をかけられた成政。不遜な物言いだなと思いつつ、振り返るとそこには住職の沢彦相恩がいた。紫衣を纏っていて高僧に見えるが、頑固なところは変わらないらしい。

「これは沢彦様。お久しゅうございます」
「うむ。信長は元気かな」
「殿にお変わりはありません。しかし今はいろいろと忙しいので」
「ああ。今川義元公が大軍勢を率いての出陣か」

 なんだ知っているのかと思いつつ「ええ、そうなんです」と肯定する成政。
 利家と違い、沢彦と親しく話をしたことがなかったので、彼の意図が分からない。
 沢彦は「どうせ、信長はいろいろと企んでいるのだろう」と吐き捨てた。

「あの男は決して諦めない。絶対に生き残る術を講じている」
「よくお分かりですね」
「あやつの教育係だったからな。ま、平手様ほどではないが」

 沢彦相恩と信長の付き合いは、成政よりも古い。
 何せ信長が元服する前からの縁だ。だから自分の知らない信長を知っているのだろう。
 成政は興味本位で「殿がどんな手を考えていると思いますか?」と訊ねた。

「知らん。わしは武士ではないからな」
「……はあ。そうですか」
「普通に考えれば義元公を討つしかないが、そんなことできるわけがない。精々、今川家の兵糧が尽きるまで、奇襲を何度も行なうぐらいだろう」

 案外、真実を掠めた戦略だったので、成政は舌を巻いた。
 数に劣る信長が取れる手として、城に篭もりつつ奇襲を仕掛けるやり方は理に適っている。
 ひょっとすると、その戦法を実際に採用して、たまたま今川義元を討ち取ってしまったのが、史実における真実かもしれない。

「それよりも利家の様子はどうだ? 追放処分を受けたとはいえ、少しは付き合いがあるだろう?」
「沢彦様こそ、住居を提供しているのですから、様子ぐらい分かるのでは?」
「あの小僧、便りの一つどころか、近況を話しに来ないのだ。猟師の真似事で忙しいのか知らんが、不義理なことだ」

 利家の性格上、不義理というより再仕官できるまで織田家に近しい政秀寺に寄らないほうがいいと考えているのだろう。処分された自分と親しくしていると沢彦に迷惑をかけるとも考えているに違いない。

「あいつは義理堅い男で、一応弁えていますから。沢彦様にご迷惑かけたくないんでしょう」
「ふん。迷惑ぐらいかけても構わんのに。あの小僧め」

 なんだこの僧、素直じゃないなと成政はくすりと笑ってしまった。
 沢彦にぎろりと睨まれて表情を元に戻す。

「私もこれから忙しくなりますので、利家のところには行けません。しかし機会があれば伝えておきます」
「そうか。頼んだぞ」

 利家のことを心配していると言いたいから、自分を引き止めたのかと思うと、ますます微笑ましい気持ちになってしまう。成政は緩んだ表情を見せないように引き締めて「それでは失礼します」と頭を下げる。

「遅れましたが、道三様を弔っていただいて、ありがとうございます」
「信長に頼まれたからな。それにあのお方も安らかに眠れるだろう」

 沢彦はにこりともせずに言う。

「信長や帰蝶殿に見送られたこともあるが、何より分骨の準備ができるようにと指示があった」
「分骨、ですか……ああ、なるほど」
「利家と違って察しがいいな」

 分骨、つまり骨を分けて別の場所に弔えるようにすること。
 それから推測するに、信長は美濃国を獲ってそこに墓を立てるつもりなのだ。


◆◇◆◇


「というわけで、このままで行くと五月に戦が起こります」
「いよいよだな!」

 森可成は起こるであろう戦の詳細を利家に告げた。
 仮住まいの家の居間で、利家はいつになく興奮していた。待ち望んでいた戦だったからだ。
 その隣で不安そうな顔をしているまつ。娘の幸は寝室で寝ていた。
 可成は「厳しい戦ですよ」と涼やかな顔で言う。

「何せ、二万五千の大軍勢が相手ですから。おそらく織田家でも生き残れる者は少ないでしょう」
「でもよ、その分活躍したら再仕官できるってことじゃねえか!」
「楽観的ですね。そういうところは、俺も見習いたいですよ」

 可成は軽く笑いながら、出された白湯を口に含む。
 まつが恐る恐る「織田家は勝てるんですか?」と可成に訊ねる。

「二万五千ですよね? そんな大軍に――」
「もしかするともっと少ないかもしれませんよ。こちらの士気を下げるための虚報の可能性もあります」

 これは嘘だった。今川家の実力を考えれば二万五千という兵数は正しい。
 しかしまつを不安にさせるのもどうかと思った可成は敢えて嘘をついた。
 それに兵数など単騎で乗り込む利家には関係ないからだ。

「私が利家を手引きします。堂々と家紋を掲げて参戦してください」
「兄い、ありがとうな」
「早く戻ってもらわないと、俺の負担が無くなりませんからね」

 もちろん、可成は自分の負担を減らすために利家を復帰させようと思っていない。自分に過剰な恩義を感じることはないという配慮だった。
 利家は気づいていない様子で「ああ、任せてくれ!」と頷いた。

「ところで鎧具足の準備はできていますか?」
「ああ。あまり上等なもんじゃないけどな。ちょうど十貫文銭で揃えられた」
「よく十貫文銭もありましたね」

 利家は頬を掻きながら「おせっかいな馬鹿野郎のおかげだよ」と言う。
 それだけで可成は成政から受け取ったのだと分かった。

「そうですか。では俺はこれで」
「もう行くのか。もうちょっとゆっくりしていけよ」
「戦が近いんですよ。軍備が大変で、丹羽殿や池田殿が悲鳴を上げているくらいですから」

 利家は「玄関まで送るよ」と立ち上がった。まつも一緒に見送ろうとしたが「まつ殿、隣の部屋で泣き声がしますよ」と可成が言う。耳を澄ますと幸が泣いていた。

「ああ、すみません。では私は……」
「ええ。お子さん、元気そうで何よりです」

 利家と可成は玄関を出た。
 すると可成が「今回の戦、俺は死を覚悟しています」と利家に言う。
 強い覚悟を内に秘めた男の顔だったので、利家ははっとする。

「まつ殿にはああ言いましたが……二万五千の大軍となると……」
「柴田様も弱気だったけど、兄いもそうなのか?」
「弱気ではありませんよ。もしそうなら逃げています」

 可成は逃げると言ったけど、利家には逃げるくらいなら戦って討ち死にするだろうなという確信があった。

「利家。今ならここを逃げて他国で武士をするのも、悪くない決断だと思います」
「兄い、それ本気で言っているなら――」
「俺も一度、美濃国から逃げていますから」

 利家は何も言えなくなってしまった。
 可成を見送った後、居間に戻った利家は一人天井を見上げる。
 隣の部屋ではまつが幸をあやしている。

「逃げるのは性に合わねえ。でもよ、俺にも守りたいもんがたくさんあるんだよな」

 守る者がいる。それは強さにつながるけど、同時に弱さにもなる。
 それをようやく理解した利家だった。

 それからしばらくして、利家に知らせが舞い込んだ。
 今川義元が大軍を率いて、沓掛城に入城し。
 織田家の城や砦を攻め始めたという、知らせが――
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み