伝道女 2
文字数 2,389文字
広場ではエレナが待っていた。
他にも男女何人かが遠巻きにしている。エレナが何か言い、大男が横にどくと彼女の右手には拳銃があった。女ものの小型である。
「エレナさん、それは何ですか? あなたは私の友人ではないのですか?」
「アナタハウソツキデス。ワタシイイマシタ。ジャングルハイッタラダメデス。ナワトッタラダメ。ワルイヒトツカマエマス」
彼女が何か言うと、大男が振り向きざま棍棒で殴り掛かった。待ってましたとばかり市は両腕を抱えられたまま体を浮かし、右足で大男の手首を蹴り上げる。ガツっと音がし、棍棒は後ろの男に飛んで腹を直撃した。降り際に市は両側の男の膝を横に蹴る。ここまで一瞬の間である。
「済まない」
当分のあいだ歩行に支障を来すだろう。さっと回り込み、一人の首を腕で締め上げる。そのときにダダーンと銃声。だが拳銃は空を向いている。
彼女は沿岸監視員に人を送ったが、まだ応答はなかった。しかし市を撃つなどあり得ない。言われたことに協力はするが、彼女自身は中立なのだ。
一方、市は男を盾にしてエレナににじり寄る。大男が再び襲い掛かろうとしたが、腹を蹴って吹っ飛ばす。結局市はエレナの拳銃をもぎ取り人質にした。男と交換である。
「エレナさん、これから一緒にピクニックをしましょう。その前に水と食べ物を用意してください」
「‥‥‥」
拳銃は仕舞ったが、市はエレナの首にがっちり腕を回している。
「お願いします。私はここを出ていくだけです。あなたを傷つけません」
結局彼女は要求に屈した。別な女に命じて椰子の実を背負袋に入れさせ、市に渡した。彼女が何事か言うと現地人たちは遠巻きに道を開けた。
二人は東向きの道を通って海岸に出た。彼女は竹筒のような水筒をたすき掛けにしている。
「それをください。毒は入っていませんね?」
エレナは水を飲んでみせた。市は水筒を受け取った。
しばらく海岸を歩いたが、追っ手は来ない。
一時間ほど歩いて彼女を解放することにした。
「ここでさようならをします。一人で戻れますか?」
「ハイモドレマス。アナタハドコニイクノデスカ?」
「この島の南の端です」
「ワカリマシタ。イキナサイ」
「え? 良いのですか」
「ハイ、ハヤクイキナサイ」
「分かりました。助けてくれてありがとう」
市は礼を言った。拳銃を返すと彼女は無言で去っていった。市は拍子抜けしたが、手荒な真似をせずに済んでほっとした。
それからしばらく歩いたが、サンゴ礁の入り組む岩場にぶつかってしまった。そろそろ日も傾いてくる。
小休止することにし、尖った石を探して椰子の実に穴を開ける。中の果汁を飲み、さらに穴を拡げてコリコリした果肉部分を食べる。
(彼女はいったい何者なのだろう? 例のスパイなのだろうか?)
だが、どうもわざと市を逃がしたように思えてならない。
彼は立ち上がった。岩場は超えられそうもなく、仕方なくジャングルに入った。入り江のようになった部分を迂回する。そうして歩き続け、日が落ちてからもずっと歩いたがまた大きな岩場に出くわし、大休止することにした。
次の日は黎明から歩き出し、昼前に現地民の集落にたどり着いた。そこはバラコマというらしい。片言の英語を話す者がおり、ときどき日本軍の船が通るという。水をもらい、歩く途中でコロンバンガラ島の右に見えていた島がギゾ島だと教えられる。敵性の集落でもないようなので、市はここに逗留して“日本軍の船”を待つことにした。
だが幸いなことに、“日本軍の船”はその日の夕刻にやってきた。てっきり左(北)から来ると思っていたら、南から現れた。
トトトトトと、いかにものどかなエンジン音が響く。
それは陸軍の大発である。このあたりは制空権も制海権も日本軍が握っており、米軍機はたまにB-17が通る程度だった。したがって船も自由に通れるわけだ。
「おーい、おーい」
市は小さな桟橋で叫びながら手信号を送った。しかし大発は警戒して沖合に止まったままである。
「おーい、俺は日本軍だ!」
市は力の限り叫んだ。何度目かでそれが通じたのか、ようやく近づいてきて海岸にのし上げた。舳先の歩板が倒れ、小銃を持った兵隊が十名ほど降りてくる。
互いに確認すると、一人は将校で艇長の船舶工兵だった。
「海軍さん、こんなところでいったいどうされたのですか」
「いやあ、陸軍さんお世話になります。実は海上に撃墜されたのですが、この島に流れ着きまして、ここまで歩いて来たのです」
「へえ、そうでしたか。それは大変でしたね‥‥‥。しかしあなたはとても運が良い!」
「とおっしゃいますと?」
「ここを大発が通るのはおそらく今日が最後なのですよ。当分来ません。というのはですね、今回予定されていた舟艇航路が北回りに変更になりまして、ここは通らんようになるのです。我々はギゾ島の中継基地設営と周辺の視察が任務で、最後にここに寄ったのですが。明日に海軍艦艇でギゾ島からラバウルに帰る予定です」
「なるほど、そうだったのですか‥‥‥それは本当に助かりました」
「いえいえ」
「ところで‥‥‥」
エレナの件を話したが、先方はあまり興味を示さなかった。あちこちの島にキリスト教系の伝道者がそこそこの数いるという。
「欧州系の人間には手を触れるなと言われておるのです。‥‥‥いずれにせよ討伐などまったく手が回らん状況です」
「なるほど、さようですか‥‥‥」
将校は沢村少尉と名乗った。
だがここまで来れば話は早い。市は大発に便乗し、ギゾ島の水上基地に送ってもらった。そこの基地員は、最前線で孤独に耐えながら奮闘しており、市は大歓迎された。直ちに無電が打たれ、結局陸軍とともに艦艇で帰ることになった。翌朝、彼は哨戒艇に便乗し、ラバウルに帰還した。
落下傘降下したのがまるで一か月ぐらい前のように思えたが、実際には、わずか四日前の出来事であった。
他にも男女何人かが遠巻きにしている。エレナが何か言い、大男が横にどくと彼女の右手には拳銃があった。女ものの小型である。
「エレナさん、それは何ですか? あなたは私の友人ではないのですか?」
「アナタハウソツキデス。ワタシイイマシタ。ジャングルハイッタラダメデス。ナワトッタラダメ。ワルイヒトツカマエマス」
彼女が何か言うと、大男が振り向きざま棍棒で殴り掛かった。待ってましたとばかり市は両腕を抱えられたまま体を浮かし、右足で大男の手首を蹴り上げる。ガツっと音がし、棍棒は後ろの男に飛んで腹を直撃した。降り際に市は両側の男の膝を横に蹴る。ここまで一瞬の間である。
「済まない」
当分のあいだ歩行に支障を来すだろう。さっと回り込み、一人の首を腕で締め上げる。そのときにダダーンと銃声。だが拳銃は空を向いている。
彼女は沿岸監視員に人を送ったが、まだ応答はなかった。しかし市を撃つなどあり得ない。言われたことに協力はするが、彼女自身は中立なのだ。
一方、市は男を盾にしてエレナににじり寄る。大男が再び襲い掛かろうとしたが、腹を蹴って吹っ飛ばす。結局市はエレナの拳銃をもぎ取り人質にした。男と交換である。
「エレナさん、これから一緒にピクニックをしましょう。その前に水と食べ物を用意してください」
「‥‥‥」
拳銃は仕舞ったが、市はエレナの首にがっちり腕を回している。
「お願いします。私はここを出ていくだけです。あなたを傷つけません」
結局彼女は要求に屈した。別な女に命じて椰子の実を背負袋に入れさせ、市に渡した。彼女が何事か言うと現地人たちは遠巻きに道を開けた。
二人は東向きの道を通って海岸に出た。彼女は竹筒のような水筒をたすき掛けにしている。
「それをください。毒は入っていませんね?」
エレナは水を飲んでみせた。市は水筒を受け取った。
しばらく海岸を歩いたが、追っ手は来ない。
一時間ほど歩いて彼女を解放することにした。
「ここでさようならをします。一人で戻れますか?」
「ハイモドレマス。アナタハドコニイクノデスカ?」
「この島の南の端です」
「ワカリマシタ。イキナサイ」
「え? 良いのですか」
「ハイ、ハヤクイキナサイ」
「分かりました。助けてくれてありがとう」
市は礼を言った。拳銃を返すと彼女は無言で去っていった。市は拍子抜けしたが、手荒な真似をせずに済んでほっとした。
それからしばらく歩いたが、サンゴ礁の入り組む岩場にぶつかってしまった。そろそろ日も傾いてくる。
小休止することにし、尖った石を探して椰子の実に穴を開ける。中の果汁を飲み、さらに穴を拡げてコリコリした果肉部分を食べる。
(彼女はいったい何者なのだろう? 例のスパイなのだろうか?)
だが、どうもわざと市を逃がしたように思えてならない。
彼は立ち上がった。岩場は超えられそうもなく、仕方なくジャングルに入った。入り江のようになった部分を迂回する。そうして歩き続け、日が落ちてからもずっと歩いたがまた大きな岩場に出くわし、大休止することにした。
次の日は黎明から歩き出し、昼前に現地民の集落にたどり着いた。そこはバラコマというらしい。片言の英語を話す者がおり、ときどき日本軍の船が通るという。水をもらい、歩く途中でコロンバンガラ島の右に見えていた島がギゾ島だと教えられる。敵性の集落でもないようなので、市はここに逗留して“日本軍の船”を待つことにした。
だが幸いなことに、“日本軍の船”はその日の夕刻にやってきた。てっきり左(北)から来ると思っていたら、南から現れた。
トトトトトと、いかにものどかなエンジン音が響く。
それは陸軍の大発である。このあたりは制空権も制海権も日本軍が握っており、米軍機はたまにB-17が通る程度だった。したがって船も自由に通れるわけだ。
「おーい、おーい」
市は小さな桟橋で叫びながら手信号を送った。しかし大発は警戒して沖合に止まったままである。
「おーい、俺は日本軍だ!」
市は力の限り叫んだ。何度目かでそれが通じたのか、ようやく近づいてきて海岸にのし上げた。舳先の歩板が倒れ、小銃を持った兵隊が十名ほど降りてくる。
互いに確認すると、一人は将校で艇長の船舶工兵だった。
「海軍さん、こんなところでいったいどうされたのですか」
「いやあ、陸軍さんお世話になります。実は海上に撃墜されたのですが、この島に流れ着きまして、ここまで歩いて来たのです」
「へえ、そうでしたか。それは大変でしたね‥‥‥。しかしあなたはとても運が良い!」
「とおっしゃいますと?」
「ここを大発が通るのはおそらく今日が最後なのですよ。当分来ません。というのはですね、今回予定されていた舟艇航路が北回りに変更になりまして、ここは通らんようになるのです。我々はギゾ島の中継基地設営と周辺の視察が任務で、最後にここに寄ったのですが。明日に海軍艦艇でギゾ島からラバウルに帰る予定です」
「なるほど、そうだったのですか‥‥‥それは本当に助かりました」
「いえいえ」
「ところで‥‥‥」
エレナの件を話したが、先方はあまり興味を示さなかった。あちこちの島にキリスト教系の伝道者がそこそこの数いるという。
「欧州系の人間には手を触れるなと言われておるのです。‥‥‥いずれにせよ討伐などまったく手が回らん状況です」
「なるほど、さようですか‥‥‥」
将校は沢村少尉と名乗った。
だがここまで来れば話は早い。市は大発に便乗し、ギゾ島の水上基地に送ってもらった。そこの基地員は、最前線で孤独に耐えながら奮闘しており、市は大歓迎された。直ちに無電が打たれ、結局陸軍とともに艦艇で帰ることになった。翌朝、彼は哨戒艇に便乗し、ラバウルに帰還した。
落下傘降下したのがまるで一か月ぐらい前のように思えたが、実際には、わずか四日前の出来事であった。