南方からの手紙 2

文字数 2,020文字

 この年(昭和十七年)も押し詰まったころ、四谷の涼子のもとに一通の厚い封書が届いた。差出人は「花井まき」とあり、とある慈善医療団体の住所が書かれていた。
「何かしら? 『花井まき』ってあの『まき』のこと?」
 知らない苗字なので彼女は少し(いぶか)しんだ。あの『まき』とは女学校時代の親友である。一緒に短距離走を頑張り、つききりでコーチをしてもらった。
(まきは女学校を卒業して一年後ぐらいに結婚したんだった。けれども、不幸なことになって旧姓〔高沢〕に戻ったはずよね‥‥‥)
 そんな記憶をたぐりながら涼子はさっそく封を切った。
——そこには驚くべきことが書かれていた。

「涼子へ
 お久しぶりです。お元気ですか。高沢まきです。突然のお手紙で驚かれたことと思いますが、私はいま日本から遠く離れたある場所で看護婦をしています。涼子が知っているのは私が出戻ったところまでと思いますが、その後いろいろなことがありました。父が突然亡くなり、後を追うように母も亡くなってしまったのです。一人になった私は、ある人のお誘いで看護婦になり、人生をやり直すことにしました。働き始めると次第に日本から離れたいとの気持ちが強くなり、とある南方行きの仕事に応募したのです。当初は違う場所にいたのですが、今年四月から今の職場に変わり、おかげさまで充実した毎日を送っております。こちらは暑いですがみなさん朗らかでとても良いところです。また縁あって新しい伴侶にも恵まれ、再婚までいたしました‥‥‥。

 さて、ここからが本題です。なんという偶然、といいますか神仏のお導きでしょうか。私はあなた様の大切な人にこの地でめぐり会ったのです。正しく言いますと、その方をお世話する機会にめぐり会いました。その方は夢うつつであなたの名前を呼んでおられました。それがきっかけで気がついたのですが、実を申すとその方は未知の重い病に罹っていたのです。上司もとても難しい顔をしておりました。航空隊の司令さんや隊長さんまでがみえられて、『なんとしても助けてほしい』と言われました。私たちは誠心誠意お世話をさせていただきました。そして、何と素晴らしい回復力でしょう。来られて四日目ぐらいでしたが、その方は峠を越えたのです。その後はぐんぐんよくなっていきました。涼子のことも話してくれましたよ。そしてわれわれも驚くほど元気になり、まだ早いとの声を押し切って退院していかれました。これはきっとあなたの祈りが通じたのだと思います。涼子も毎日あの方のご無事を祈っておられるでしょう? それを天が聞き届けてくださったのです。私たちもうれしさのあまり天にも昇る心地でした。航空隊ですから、いずれあの方は内地に戻られると思います。つまりあなたのもとに戻られるのです。きっと、いえ、必ず戻ると私は確信します。体はもう万全です。安心してお待ちください。あのような伴侶に恵まれ、涼子は幸せ者です...
(中略)
 涼子と二人で走った日々を思い出します。また会いたい。私はいつ帰るか分からないけれど、日本に戻ったら必ず会いにいきます。それまでお互いに元気でいましょうね。それでは再開を期して。良い年をお迎えください。  
                   遠き地より北の空をのぞんで  花井まき」

 いつの間にか、涼子の頬は涙に濡れていた。
「まきが市ちゃんを助けてくれたんだ。ありがとう‥‥‥。ありがとう‥‥‥本当にありがとう‥‥‥まき、必ず会おうね‥‥‥絶対だよ。内地に来たら連絡してね」
 彼女は便箋を押しいただき、時のたつのも忘れてじっと坐っていた。

「おねえちゃん?」
 涼子は男の声でわれに返った。窓の外はもう日が傾いている。
「何かあったの?」
 声の主は弟の博一だ。
「ううん、何でもない」
「それはうそだって、顔に書いてあるよ」
 はれぼったい涼子の目を指して博一は笑った。
「まさか、お義兄さんに何かあった、というわけではないね?」
 彼は急に真顔になった。
「うん‥‥‥それは大丈夫」
 涼子は誰かに聞いてもらいたくなった。
「博一は『まき』って知ってたっけ?」
「もちろん! おねえちゃんに短距離走を教えてくれた女学校の親友でしょ?」
「そうそう。その『まき』がね、市ちゃんを助けてくれたんだって」
「え、お義兄さんを? それはいったいどんな事情で?」
「うん。『まき』は看護婦さんになって南方に行ってるらしいのよ。それで、向うで市ちゃんが重病になって入院したときに出会って看病してくれたんだって」
「なんと、そうだったの‥‥‥それはまたとてつもない奇遇だね。でも良かったね。お義兄さんも南方で活躍していたんだ‥‥‥どこだろう、ラバウルかな?」
 博一は窓を開け、師走の冷たい風が吹き込むのもかまわず南の空を仰ぎ見た。
(お義兄さん‥‥‥)
「うん、どこかしらね」
 涼子も手紙を持って隣に立ち、一緒に冬の空を眺めた。空気は冷たいのに、なぜか満洲の暑い夏を思い出した。
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