市、復帰す 1

文字数 2,211文字

 十一月下旬に入ると、市は部隊に復帰した。しかし木下軍医中尉の厳命で、さらに一週間飛行は差し止められた。その間、身を鍛錬し体力回復に努めた。
 彼は医務室で中尉に尋ねた。
「木下さん、結局私の病気はなんだったのですか?」
「うん。正直言って分からない。だが、君は大陸にずいぶん長くいたよな。その間に似たような出血性の症状に見舞われたことはないかい?」
「いやあ、まったくないですよ」
「ふうむ、そうか‥‥‥。今回の場合、おそらくデング熱が治りきっていなかったのだと思うけれど、そこに何が起こったかはまったく不明だな。海外の文献をあたればヒントが見つかるかもしれないが‥‥‥しかし、誰にも伝染しなかったところを見ると、伝染性はあまり強くなかった、いや、実はまったくなかったと考えられる。つまり伝染病ではなかったってことかな」
(‥‥‥おかげで俺も切腹せずに済んだってわけだ)
「はあ、そうですか、それは良かった。みなさんにもご迷惑を掛けないで済みました。でもお陰様で、もうぴんぴんしてますよ」
「うん、それは良かった。いやあ、本当を言うと、血を吐いたりするんで、どうなることかと思ったよ」
 木下はニヤリとした。
「ははは、どうも。本当に大変お世話になりました。今度お暇なときに“視察飛行”にご招待しますよ」
「おう、それは楽しみだ」
 木下は笑って手を挙げた。市も笑顔を作り敬礼した。
 しかし、彼のいないあいだにガダルカナル方面の戦況は著しく悪化していた。重大局面、すなわち十一月中旬の船団輸送が完全な失敗に終わったのだ。その作戦では大量の糧秣や資材が、十一隻の輸送船とともに海の藻屑と化した。
 ちなみに、内地帰還の挨拶に来た杉本たち三人とも会えずに終わった。彼らは市の教えをよく守り、ガダルカナル島の空戦を生き延びていた。

 十一月の終り頃から市は飛行を再開した。当初は、連日上空警戒が割り当てられた。敵機さえ来なければ一日一直三時間の楽な仕事である。ほぼ必ず彼が指揮官を務めたが、指揮官機には無線電話が整備されていた。
 そんなある日の午後、レシーバーから声が聞こえてきた。
「ツバメ一番どうぞ?」
「こちらツバメ一番、どうぞ」
「スルミ基地より入電。B-17六機、高度約五〇(五千メートル)、当基地に向かう。当基地よりの方位二三〇、迎撃に向かえ」
「了解」
 市は大きくバンクし、列機二機を呼び寄せた。飛行場は土煙に包まれており、可働のほぼ全機が離陸するようだ。
 しかし白昼堂々B-17六機とは穏やかではない。
(六機とは手ごわいな‥‥‥いよいよ敵は畳みかけてきたのか?)
 高度を上げながら市は列機を振り返った。この日は二人とも飛長で弱の部類だ。対B-17の戦闘などやったことはないだろう。
(最悪の場合二人ともやられるかもしれない‥‥‥)
 なにしろB-17は市や権藤でも被弾するような相手である。
 ちょっと嫌な予感がした。そうするうちにも三機はぐんぐん敵機の方角に進んでいる。
 と、黒点が見えてきた。高度はかなり低い。舐めているのかおそらく四千ぐらいだ。市は直ちにバンクし、機速を落すとともに高度を捨てた。五千よりさらに下げ、比較的安全とされる直上方背面降下を行うことにする。

 敵はオーソドックスな三機、三機の編隊で、第二小隊が第一小隊の左後上方に付く隊形である。この場合、向かって右端の機(第二小隊の二番機)を狙うのが最も安全だが、市は左端の機(第一小隊の三番機)を狙うよう指示する。これはやや危険だが、敵の爆撃を阻止するためにはやむを得ない。
 反航のためにみるみる距離がつまり、市はくるりと背面になった。だが、降下中にとっさに一番機(隊長機)に狙いを変更した。少し左に機を捻り二〇ミリを発射。すかさず逆に捻って操縦棹を突っ込み、主翼の後方で躱す。下に抜けたら右に捻って操縦棹を引き、右に退避。同時に緩横転を打つ。三、四機分の旋回機銃が追ってくるが当たらない。高度は三千を切っている。
 主翼の付け根を狙ったが、かなり逸れて胴体の操縦席付近に命中してしまった。とっさの変更だけでなく、さすがの市も病み上がりで完全ではなかった。撃たれたB-17はやや機首を下げて針路を外れた。意図せずして操縦士に命中したのかもしれない。
(済まない)
 市は片手で拝み、軽く瞑目した。
 一方、こちらの列機はと見ると、二機ともはるか後方に落伍している。降下のタイミングが遅れたようだ。だがそれで良い。やられないことが重要なのだ。
 市はバンクしながら敵編隊の右側方で再び高度をとる。しかしこの敵は頑強で、隊長機が離脱したにもかかわらず、速度も針路も変えずに爆撃態勢に入ってしまった。これは市の負けだ。おそらく地上は地獄になる。
(基地のみなさん、申し訳ない‥‥‥)
 次は同航で前に出て再び背面降下攻撃。標的は第一小隊の三番機である。
 同航からだと反航よりタイミングは取り易いが、降下中は反航になるので難しくなる。市は列機を待ち、バンクするとくるりと背面になった。ぐんぐん降下し、すれ違いざま二〇ミリを全弾撃ちこむ。このときの機材は一号零戦で、弾は六〇発しかなかった。
 敵機の上から右後方にぬけ緩横転。その機は主翼の付け根から火を噴いた。二番機は同じ敵機の尾翼に命中弾を得た。市たちは反転するが敵編隊ははるか前方である。だが撃った敵機は火だるまになり、錐もみになりながら墜落していった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み