受難と再生(晶子の場合) 3

文字数 2,202文字

 涼子が挨拶した。
「こんにちは。私たちは信徒ではありませんが、あまりに美しい歌声だったので、ついお邪魔してしまいました。本当に素晴らしかったです」
「そうでしたか。それは良かったです。教会はどなたがいらっしゃってもよろしいのですよ。私たちはいつでもあなた方を歓迎します」
「ありがとうございます」
「ところで‥‥‥」
 牧師は晶子の方を向いた。
「何か心に苦しいことがおありですか」
「‥‥‥」
「よければお話になりませんか」
「‥‥‥」
「今日ここで私たちがお会いしたのも何かのご縁です。もしあなたのお力になれれば、それは私のよろこびです」
「‥‥‥」
 彼は待った。

 質素な礼拝堂はしーんと静まり返り、ときおり楽し気な小鳥の声がする。物言わぬ十字架がなにかを訴えかける。
 その雰囲気に導かれ、とうとう晶子が語り始めた。消え入るような声だ。
「‥‥‥暴力を受けました‥‥‥」
 牧師はじっと黙って聞いた。彼女は、そのきっかけや寺のことは伏せ、真心が家を出ていくまでの経緯を淡々と話した。彼は彼女がどこかの寺の女房だと察したかもしれない。だが、何も言わずに最後まで聞いた。そして穏やかに尋ねた。
「その人はなぜそんな仕打ちをあなたにしたのですか?」
「分かりません‥‥‥でも‥‥‥」
 再び沈黙。のどかな小鳥の声。
「‥‥‥でも‥‥‥私のことを嫌いだったのかもしれません」
「では‥‥‥そのときあなたはどう思っていましたか? その人が嫌いでしたか?」
「‥‥‥嫌いかどうか分かりません。でも恐ろしかったです」
 彼はしばらく晶子の言葉を咀嚼した。そして言った。
「その人はもういないのですね?」
「はい」
「ではあなたはその人を許すのです」
「え?」
「そうすればあなたは救われます」
「‥‥‥」
「主はあなたを祝福します」
 牧師は断りを入れて中座し、二人に小さな聖書を持ってきた。それを受け取ると、二人は改めて丁重に礼を言い、教会をあとにした。

 帰り道は二人とも無言で歩いた。
 晶子はずっと「許すのです」の意味を考えていた。寺に着くと、涼子は小さく「またね」と言って帰っていった。
 それからも考えた。
 晶子は牧師に感謝しながらも反発していた。だが、はっと気づいた。
(「許せば救われる」は真理だ)
 無論、そんな単純ではないと分かっている。だが物事はそこから始まる。
 同時に、あんな男のために人生を失いかけていた愚かさが見えてきた。また自分は経などを読んでいながら、自分を救えなかった。それは仏の教えをまったく理解していないということだろう。自分を救えない者が他人を救えるはずがない。
(仏なら何と言うのか)
 まずそれを知らねばなるまい。
(ただの知識では駄目だ‥‥‥)
 この日から晶子は仏の言葉に真剣に取り組んだ。一方で涼子に電話を入れ、花見に誘った。真心が出ていったのは晩秋だが、もうそんな季節になっていた。

 平日だが、二人は上野のお山まで出かけた。晶子から誘ってきたことが良い兆候に思われ、涼子はうれしかった。
 ちょうど良さげな桜の下に木製のベンチがあった。二人は並んで坐った。花は満開である。
 晶子は涼子の手を取って言った。
「涼ちゃん、いろいろとありがとう。私、もう大丈夫だと思う。今まで本当にありがとう」
 涼子の目にはみるみる涙がたまり、泣き笑いになった。色白の彼女には薄い桜色の紅がよく似合う。晶子はきれいだなと思った。その涼子が言った。
「よかった。私、本当にうれしい。‥‥‥本当によかった。でもこれでお相子(あいこ)よ。むかし市ちゃんに会いに行く前のこと、覚えてる? 私がとても辛くなったときに、晶ちゃんが助けてくれたじゃない」
「そうだった?」
 晶子は少し照れてとぼけた。
「うん」
「ああ‥‥‥そういえば‥‥‥、そんなこともあったかしら。ふふふふ」
 なんだか可笑しくなった。涼子もつられた。
「そうよ、あははは」
「私、髪を下ろすことにした」
「えええ! やっぱり尼さんになるの?」
 涼子は大きな目を一層大きくした。
「うん、合ってるでしょ。うふふふ」
「あははは、素敵!」
 花びらの舞う中で二人は心から笑った。ちょうど小鳥たちが舞い降りてきて、二人を不思議そうに眺め、また飛び立っていった。

 それからまもなく晶子は得度し、正式に父の跡を継いだ。涼子も式に立ち会った。
——だが、晶子は二度と男に関わりたくないと思い、それは今も変わらない。実際にそんな機会もなかった。
 この一連の出来事はずいぶん昔のことだが、二年前に父が亡くなった。脳溢血だった。その後は母と二人きりだが、平らかなお勤めの毎日が続いている‥‥‥

「ねえ‥‥‥晶ちゃん、晶ちゃんたら、聞いてる?」
 彼女は現実に呼び戻された。
「ああ、ごめんなさい。なに?」
「ねえ、私と一緒に神社にお参りに行ってくれないかしら? 晶ちゃんが一緒だと願いがかなえてもらえる気がするの。仏門の人が行ったらいけないの?」
「んんん、大丈夫よ。どこに行こうか?」
 涼子の行きつけは、青木宅から少し南に行ったところにある小さな神社だ。大事なときにはいつもそこで祈願し、ご利益があったと信じている。もちろん晶子もその神社は知っている。
 外は生暖かく、霧雨のような水分が肌に触れた。二人はしばらく歩いて神社についた。盛んだった蝉の声もこの日は湿りがちである。賽銭を弾むとぱんぱんと手を打ち、長身の女は市の早い帰りを、僧衣の女は市の不死身を祈った。
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