市の未帰還 4

文字数 2,100文字

 九ノ泉は、事故ばかりか搭乗員が全滅したというのに、さして深刻に受け止めていなかった。憮然とした表情を作りながら、むしろ内心では大笑いしたいのをこらえている。不遜極まる部下がいなくなり、せいせいした気分なのだ。
(下の者が逆らうなど、あってはならんことだ。その意味では、むしろベテラン搭乗員の方が厄介だったわ。まったく彼奴等ときたら疫病神ではないか‥‥‥。それがいなくなると思えば、気分が軽くなるというものだ)
 搭乗員については、また若手を送ってもらえばよいと軽く考えている。先日補充を断られたばかりだが、一人もいなければまた送らざるを得ないとの読みだ。
(唯一問題があるとすれば、いわゆる世間体というやつか‥‥‥)
 今回の全滅は、特に二人のようなベテランを戦死させたことで、ダメな指揮官として後ろ指を指されるかもしれない。ラバウルでも暗に咎められた。下の者が何を言おうがどうでもよいが、幹部からの受けが悪くなるのは困る。
(しかしそもそもの問題は、最前線のこのわしにわずかな機数しか送らないことだ。もっと航空兵力があればまったく違う結果になったはずである)
 そのことはしっかり伝えたつもりだ。
(まったく‥‥‥わしを咎めるなど、お門違いもいいところだ)
 彼は自己の資質に問題があるとは、つゆ考えなかった。
(それにしてもあの両名はなんだ、わずか一週間で未帰還になるとは。手練れなどと前評判だけで、口ほどにもなかったわ‥‥‥)
 思考はさらに回る。
 所詮、搭乗員は消耗品であり、次の補充は質より量を求めるべきだと彼は結論した。
(‥‥‥しかしこれで軍法会議の手間も省けた。早いうちに厄介払いができて良かったのかもしれん。俺にはまだツキがあるようだ)
 彼の口元は自然にほころんだ。そこで事務掛がまだ立っていることに気づき、思わず怒鳴りつけた。
「なんだ貴様、まだいたのか。用が済んだらさっさと下がらんか!」
「は、申し訳ありません!」
 事務掛は慌てて一礼し、出ていった。
(まったく鈍い奴らだ。どいつもこいつもなっとらん)
 しかし九ノ泉は内心上機嫌なのである。一人になると、とうとうこらえ切れなくなった。
「ふふふふ、ははは‥‥‥はっはっはっは」
 閑散とした指揮所に奇怪な笑い声が響いた。

 一方、基地の中は全体に沈鬱な雰囲気に包まれた。特に整備科の連中は真っ青になって黙り込んでいる。
——午後、いつもの時間に市たちが戻らないことを知っても、富田を始め、みなさして驚かなかった。
「大丈夫だ。あのお二人に限ってやられることはない。そのうちに戻られるさ」
 しかし段々時間が過ぎていくにつれて、気になり始めた。そして、とうとう居ても立っても居られなくなり、大勢で滑走路をうろつき出した。
「まだ戻られないか?」
「まだです」
 彼らは夕刻まで待ったが、ついに二人は戻らなかった。すでに燃料はないはずだ。
 みな呆然とした。
 事故にはある意味“慣れている”が、敬愛する搭乗員が戻らないのは辛い。知り合って日は浅いが、長年の付き合いのような気持ちになっていた。目の前でB-17に襲い掛かった手並みは鮮明に覚えている。誰もが市たちを誇りに思った。あの彼らがやられるなど、まったく信じられなかった。
(しかも二人いっぺんに‥‥‥)
 富田は、地面に体が吸い込まれるような感覚に襲われていた。
 主役の機体が戻らないため、整備場も夜の墓場のような静けさだ。
(...あり得ない。いったい何があったのか。思いつめていた権藤さんがしくじりをやったのか‥‥‥あるいは‥‥‥)
 彼は整備に落ち度がなかったか気になった。しかし、どう思い出してみても、発動機はもちろん機体にもまったく異状はなかった。二機とも絶好調だったと確信する。
(いや、整備は完璧だったはずだ。そもそもお二人も一緒に確認している‥‥‥。とするといったい何故だ?)
 それは考えて分かるはずもない。結局、二人がどこかで生きていると一縷の望みをつなぐしかなかった。
 彼らは浴びるほど酒を飲んだ。

 海上では、夕方頃から空は雲に覆われ、雨が降り出した。風も出ている。このまま時化(しけ)が来たらまず命はないだろう。体温も低下しつつある。うねりに揉まれながら、さすがの市も少し焦り出した。
「涼ちゃん、海の神様を鎮めておくれ。でないと君のもとに帰れなくなってしまうよ。どうかお願いします‥‥‥」
 夜になった。いつもなら降るような星空だが、いまは薄ぼんやりと雲に覆われている。しかし幸いにも、風雨は収まってきた。涼子の奉じる八百万(やおよろず)の神のおかげかもしれない。
 それはともかく、市は暗闇で漂流しながら昼間の空戦や過去の空戦、さらに昔の満洲時代の飛行のことを思い出していた。
(この天気じゃ、明日の〔ガダルカナル島〕攻撃は中止かな)
 などと他人事のように考えたりもする。
 彼の見たてでは、潮流は時速一ノット(秒速約〇・五メートル)程度で東から西に向かっており、朝にはベララベラ島の近くに達すると思われた。ただし、それを過ぎると北西に向かわない限り島はなく、野垂れ死の運命である。なので何度も何度も闇を透かしてベララベラ島を確認した。
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