ラバウルに来るまで

文字数 1,973文字

 ここで、市のこれまでについて簡単に触れておこう。
 彼は生まれは東京だが、少青年期を満洲で過ごした。中学を四年で修了すると、奉天(ほうてん)(現・瀋陽(しんよう))の医科大学予科に進んだ。次いで昭和十一年(一九三六)四月に医科大学本科に入学したが、故あってすぐに中退した。その翌月に内地で航空予備学生となった。翌昭和十二年(一九三七)五月に退隊、海軍予備少尉に任官した。

 彼は予備学生入隊時に、すでに「飛行時間三千時間の予備学生」として有名になっていた。実際の飛行時間はもっと遥かに多いと思われるが、正確に記録していなかったので少なめに申告していた。
 入隊当時から、空戦能力はベテランの下士官・准士官を凌ぐほどで、同期の予備学生や海兵出の飛行学生などてんで問題にならなかった。傑作だったのは、「どうせ輸送機に乗っただけだろう」とか「民間の飛行学校など飯事(ままごと)レベルだ」などと馬鹿にして掛かった連中が総なめにされたことだ。市から見れば飯事レベルは彼らなのだが、彼は厭わずに空戦の相手をした。大尉クラスの教官は笑いながら勝負を辞退した。
 結局彼は、こと飛行に関しては全ての教程を飛ばし、ベテランとの空戦訓練に明け暮れた。おまけに発動機整備の腕は、どの整備員よりも確かだった。
 約一年後に、彼は“惜しまれながら”退隊した。

 彼は入隊時すでに一等飛行機操縦士の免状を持っており、退隊後すぐに民間の航空輸送会社にパイロットとして採用された。ところが、同年(一九三七)七月に大陸で事変が勃発すると海軍に召集され、以来海軍の搭乗員としてずっと過ごしている。
 彼は、海軍に戻った年の暮れに大陸の戦線に送られた。ここで戦闘機搭乗員としての初陣を飾り、短い内地勤務をはさんで、昭和十六年(一九四一)夏に赤城飛行機隊に転勤した。
 ここから本格的に太平洋の戦線で戦うことになるが、対米英蘭開戦後は、ハワイ作戦から南方作戦、インド洋作戦、ミッドウェー海戦と戦歴を重ねた。ハワイ作戦では機動部隊直衛に回されたために敵機との戦闘はなかったが、南方作戦やインド洋作戦では英軍機などと交戦し、撃墜を重ねている。
 米軍機との交戦はミッドウェー海戦が初めてだった。

 操縦技倆はぴか一以上であり、戦歴も長かったが、実のところ彼はいわくつきの搭乗員であった。
 予備少尉として召集されてしばらく経った頃、彼は横須賀で海兵出の少尉たちと揉め事を起こした。発端は敬礼したのしないのだったが、これが大ごとになり、十人ほどを相手に大立ち回りを演じるはめになった。
 これを民間人も見ていたことから憲兵まで出動する騒ぎになり、市は軍法会議に掛けられることになった。ところが、この話が海軍省に伝わると、どういうわけか雲の上から「まった」が掛かった。
 結局、紆余曲折の末に表向き軍法会議は免れたが、海軍省人事局において『現階級ニ差シ止ム』なる異例の処置が取られた。つまり市は、これが解除されない限り少尉から階級が上がらないことになった。ちなみに相手の少尉たちにはなんの咎めもなかった。
 そのとき、彼は霞ケ浦航空隊附だったが、「さっさと最前線に送ってしまえ」となり、大陸に送られたのである。

 大陸では万年少尉として過ごしたが、喜怒哀楽に乏しい彼は、ぎらぎらせずにいつも恬淡(てんたん)としていた。実は、彼は幼い頃の精神的ショックが原因で脳に異常を抱えていた。その異常は感情鈍麻という形で現れ、彼は喜怒哀楽に乏しいのである。
 それはともかく、彼はたゆまずに九六戦(九六式艦上戦闘機)での空戦訓練に励んだ。相手はベテランの下士官や空曹長たちだったが、彼らも市の腕を知ると一目も二目も置くようになった。しかし、三年以上という長い年月大陸に留め置かれたのは、一種の懲罰人事だったのかもしれない。相当な撃墜戦果を挙げたのはせめてもの慰めだったが‥‥‥
 赤城飛行機隊に転勤してからは、上空警戒を多くあてがわれた。そのため、彼の小隊に配置された搭乗員は、人によっては腐ったりするのである。
 しかし、すでに述べたように、ミッドウェーでは来襲する米軍機と激しい戦闘を演じた。この海戦で彼は味方撃ちによって撃墜され、海面に落下して人事不省に陥った。十一日後に昏睡から醒め、一時的に健忘症になったが復帰した。横須賀航空隊附になったが、昭和十七年八月七日の米軍によるガダルカナル島上陸をうけ、ラバウルの基地航空部隊に転勤の命を受けた。そうして彼は八月下旬にラバウルに着任した。
 移動の際、サイパン-トラック-ラバウル間は一式陸攻(一式陸上攻撃機)に便乗した。彼は九六陸攻には何度も乗ったが一式陸攻は初めてで、非常な興味を覚えた。「俺にやらせてくれ」と操縦棹を握り、とうとう着陸までやってしまった。彼にしてみれば陸攻は安定感のある良い飛行機だった。彼は陸攻の操縦を堪能した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み