孝子の憂鬱 1

文字数 1,940文字

 同じ日の夕方、場面は変わって東京は四谷の青木家である。

 八月ももうじき終わるというのに、うだるような暑さが続いていた。蝉時雨もまだまだ勢いがあるが、この時間はやはりひぐらしが優勢になる。その声音は哀愁を帯び、なんともいえぬ抒情をそそる。
 かつてこの家の隣には市の生家があった。幼い日にある不幸な事件が起こり、彼は満洲に旅立ったのである。今はもうその家もない。
 一方、こちらの青木家は、家屋敷に関する限りその頃から変わっていない。
 敷地はまあまあ広く、端の方には結構な大木がある。その幹に両の手を当て、真剣に祈りを捧げている背の高い女がいた。この家の長女・涼子(りょうこ)である。
「八百万の神様。どうか市ちゃんが無事に帰ってきますように。どうかどうかお願いいたします」
 これを三回繰り返して手を合わせる。
——あれは震災の直後だった。親友の賀来(かく)晶子(しょうこ)から、神はどこにでも宿っていると教えられた。以来、涼子は庭の北西側にある大木に神が宿っている気がしてならない。いつしか幹に手を当て祈りを捧げる習慣ができていた。
 その市が青木家にひょっこり現れたのは、つい先日、六月後半のことだった。涼子は狂喜した。彼は記憶喪失を患っていたが、涼子に会うと急速に回復し、全てを思い出した。しかしそれは彼が再び戦場に赴くことを意味した。そうして彼が出て行ったのはこの月(八月)の中旬である。行き先はもちろん秘密だが、南方とだけ教えてくれた。
(南方のどこに行ったの‥‥‥? 市ちゃん‥‥‥)
 それは誰にも分からない。元気でやっているはずと信じるが、もちろん不安を完全に消すことはできない。
(どうして彼はいつも遠くに行くのかしら?)
 分かるようで分からない。これまで何百回も繰り返してきた問いだ‥‥‥
 彼女は空を見上げ「はぁ」とため息をついた。

(あら?)
 門から入ってきた孝子は、すらりとした娘の背中を見て一瞬声を掛けようか迷ったが、そのまま通り過ぎた。
(またお祈りかしら。熱心なことね‥‥‥)
 彼女は涼子にそんなことをさせる(別段頼まれたわけではないが)市が気に入らない。少し大きな音を立てて玄関の戸を開け、後ろを見ずに中に入った。思い返してみると、子供の頃から、なぜか涼子は隣家の市を婿にすると言い張った。何百回それを止めさせようとしたことだろう。しかし不本意なことに二人の結婚は現実になってしまった‥‥‥
 手を洗い顔も洗ったが、のどが渇く。台所の土間には大きな冷蔵庫が鎮座している。彼女はガチャリと取っ手を引いて扉を開け、冷やした麦茶を取り出した。コップに注ぐと板べりに腰を下ろし、飲んでほっとひと息つく。
「お母さま、帰ってらしたの」
 いつの間にか後ろに来ていた涼子が声を掛けた。
「ええ、たった今戻ったわ。あなた、お庭で何やら一生懸命お祈りしていたから、声は掛けなかったけれど。‥‥‥何か用かしら?」
「いいえ、特には。今日のお夕飯の支度は私がするから、お母さまはゆっくりしてらして」
 それは言わずもがなである。今は涼子と孝子が一日交代で夕飯の支度をする。その“当番制”は厳格に守られており、今日は涼子の番なのだ。
「あら、そうだったわね。ありがとう」
 孝子はコップを洗ってふきんに伏せ、茶の間に移動した。夏だというのにその場にはひんやりした空気が残された。

 彼女はテーブルで新聞を拡げたが、記事はさっぱり頭に入らない。それを畳み、誰かが置いたままのうちわを使う。
(わが家はなぜこうなったのか。あの子のせいなのは明らかだけれど‥‥‥)
 涼子はともかく、次女の夏子はなんとしたことか、医者という職業を選んだ。おかげで普段の日も帰りは遅く、家で夕食を摂ることも少なくなった。
(嫁入り前の娘がそんなことでは困るじゃないの‥‥‥)
 彼女が女子の医専に行きたいと言い出したとき、孝子はいささかたまげた。挙句、おとなしかった夏子が「学費は自分で払うから。どうしてもだめなら自活します」とまで言いだし、両親はとまどいながらも認めざるを得なくなった。
 約束通り夏子は自ら学費を負担したが、なんのことはない、“出世払い”で涼子から援助を受けていた。なぜ医者なのかといえば、どうやら市に触発されたようなのだ。夏子が女学校の高学年の頃、市は満洲の医科大学予科に通っていた。
(まったく‥‥‥夏子までがあの子に影響されてしまって‥‥‥)
 ところが‥‥‥である。
 これまた奇妙なことに、ちょうど夏子の医専入学と入れ違いに市は大学を辞め、海軍に入った。向こう(満洲)で起こった大事故がきっかけだとは承知しているが、ならば尚更のことおかしな話だ。孝子はわけが分からなかった。
(だけど、うちに乗り込んできたのは、大学の予科に入ったときだったわね‥‥‥)
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