ミッドウェーの海 2

文字数 2,138文字

――しかしそれからまもなく。
 波間には、一人取り残された市が漂っている。しぼんだパラシュートを付けたまま、どういう加減かうまいこと仰向けになっている。この一角は少し静かだが、どこからか断続的な爆発音や機銃の発射音が響いてくる。
 そこに、規則的な掛け声とともに、シャーッ、シャーッ、と水を切って二艘のカッターが近づいてきた。
 片方の指揮官が手でメガホンを作り、もう片方に声を掛けた。
「タケルさーん、そいつはお願いしまーす」
「おっしゃー、引き受けたー」
 (とも)に立った偉丈夫が答える。それは善行章を四本つけた兵曹長で、自ら手を上げてきたのだ。彼は同期の最右翼であろう。筋骨は隆々、見るからに頑健そうな体躯に、よく日焼けした不敵な表情が乗っていた。
 そのカッターは市のそばに素早く漕ぎ寄せた。
 彼は熊手のような棒で器用に市を引き寄せると、部下二人を海に入れた。
「うりゃー」と力を合わせて引き上げる。
「ふう‥‥‥、なんだこいつ、重てえなあ」
 タケルは八〇キロあったが、救命胴衣が海水を吸った市はゆうに百キロを超えるだろう。
 彼は素早く市の胸をはだけて心臓の音を聞いた。えらくゆっくりだがドックンと力強く打っている。
「おい、ちゃんと生きてるぞ。面倒見てやれ!」
 彼は部下に介抱をまかせ、自身はオールを握った。他にも搭乗員を二名救助している。
「よーし、大戦果だ。急いで戻るぞ」
 カッターは駆逐艦の舷側に到着し、クルーは上手に船体に寄せた。
 意識の戻らぬ市は吊り上げて収容される。タケルは市にロープを()わえながら、耳元でささやいた。
「少尉さん、ちゃんと元気になって、次はあんたが俺たちを助けてくれよ」
 駆逐艦が飛行機に襲われれば、ひとたまりもない。信じ難いがそれが現実になりつつある。彼は、飛行機などという兵器があること自体気に入らなかった。

 それはともかく、市は知らぬ間に知らぬ男たちに救助され、看護され、さらには大型艦に移され、呉まで運ばれた。

  * * *

「それで昏睡十一日間ですか。ひでぇな‥‥‥撃ったのはどこの艦か分からんのですか?」
「さあねえ‥‥‥もしかすると『赤城』なのではと思うね‥‥‥しかし敵にはなかなか当たらないのに、味方には当たるんだからやれやれだね」
「はあ、まったくですね‥‥‥」
 権藤は空母の飛行機隊の経験はなく、そのあたりはぴんとこなかった。しかし、今いる陸上基地でも、高角砲などは目標が遠ければ誤射があり得ると思った。
「しかしまあ、なんであんなひでぇ負け方したんですかねぇ?」
 海軍内でも緘口令が敷かれていたが、彼は知っていた。日本海軍の主力四空母が一挙に海の藻屑となったのだ。
「うん‥‥‥誰しも、まさかあんなにやられるとは思ってなかっただろうね。俺はずっと上空警戒だったから、実のところ、何故ああなったのか良く分からないんだよ‥‥‥」
「はあ‥‥‥実は俺がちらっと聞いたところでは、兵装転換を二度やったそうですね。それでえらく時間が掛かったとか」
「そうらしいね」
「‥‥‥」
「だがむしろ問題は‥‥‥」
「はい」
「思うに、どうも俺たち(の機動部隊)は待ち伏せされてた気がするんだよ」
「?」
「だいいち、あんなに都合よく敵の機動部隊がいるものかね」
「なるほど‥‥‥確かに。考えてみればそうですね‥‥‥。もしかして、こっちにスパイでも入り込んでるんですかね」
「ううん、可能性としてはあり得るね‥‥‥」
「‥‥‥」
 もちろん、市の考えは根拠のない疑念でしかなく、まさか暗号が抜かれているとは夢にも思わなかった。
 権藤が話題を変えた。
「ところでですが、分隊士はなぜ搭乗員になられたのですか?」
「ああ‥‥‥。何と言うかな、‥‥‥とにかく飛びたかったんだよ俺は、空を。それは飛曹長も似たようなものでしょ?」
「ええ、まあ‥‥‥」
 彼の場合は切実な動機もあったが。
「それで小学校のときから飛行機に乗ってたんだよ」
「へ? 小学校ですか!?」
 権藤は驚いて煙草をぽろりと落とした。それを拾ってまた咥える。かつがれているのかと市の顔を見ると、そいういう雰囲気でもない。
「うん。俺は故あって満洲の伯父のもとで育ったのだけど、その伯父が航空輸送会社を立ち上げたんだ。『お前のためだ』なんて言ってたけど。まあ、それはともかく、子供の頃から当たり前のように飛行機が傍にあって、当たり前のようにそれに乗って飛んだのかもしれない。陸軍のベテランパイロットもいたし‥‥‥その人が俺の師匠なんだけれど」
「なるほど、さような経緯でしたか。そういえば航空輸送会社の噂は聞きました」
「うんうん、それそれ。つまりは‥‥‥、月並みだけど飛行機の操縦は俺の天職とでも言ったらよいかな」
「そうですね‥‥‥。そんなお若い頃から飛んでいらっしゃったのなら‥‥‥」
 権藤も少年航空兵出身であり、人よりも若いときから飛んでいると自負していた。だが小学生とは桁が違い過ぎて恐れ入る。
(やれやれ、上には上がいるものだ‥‥‥)
 脱帽である。彼は頭を整理すると感慨にふけり、煙を吸い込んだ。小さな火がパチパチはぜる。
「ところで飛曹長、あすは早いから、そろそろ戻ろうか」
「はい」
 二人は立ち上がった。士官宿舎の前まで来ると権藤は敬礼して別れた。
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