孝子の憂鬱 2

文字数 1,826文字

 市は大学予科に入学した夏休みに、涼子と結婚したいと申し出てきた。二人は幼なじみだったがこれは長年の懸案で、孝子はずっと反対していた。しかし夫の博倫(ひろみち)が軟化したこともあって、結局婚約を認めざるを得なくなった。だがそのときに条件を付けた。
「あなたがお医者さまになって、きちんと生計を立てて涼子を幸せにしてくれるなら、結構よ」
 市は「はい、そういたします」とはっきり約束した。だから認めたのだ。
(それなのに今の状態ときたら‥‥‥そもそもあの子はパイロットになるはずではなかったの?)

 市はそれこそ子供のころから飛行機に乗り、中学の頃には縦横無尽に満洲の大地を飛び回っていたという。
 だが、そのパイロットという職業は、ますます孝子の気持を遠ざけていた。いつ墜落して死ぬか分からぬ人間に娘をやることなどできないからだ。それが突然どう心変わりしたのか、市は医科大学予科に進んだ。しかし、いくら生家が医院だからといって、彼の転身はいかにも唐突で不審だった。孝子にすれば、本業はパイロットで医者はただの付け足しではないかとも疑われた。
(まさか‥‥‥〔涼子と結婚するための〕ただの方便だったのかしら? いや、いくらなんでもそれはないわね‥‥‥)

 当時、彼女は疑念を抱きながらも市の医科大学入学という現実を評価し、婚約を認めた。それが二転して市はパイロットに戻り、さらには海軍予備少尉になった。ころころと二回も道を変えるなど、とんでもない背信行為に思えた。
 折悪しく大陸で事変が勃発して市は海軍に召集された。そしてその年(昭和十二年・一九三七)が押し詰まった頃に青木家に現れ、しゃあしゃあと言ったのだ。
「涼子と祝言を挙げたい」と。
 彼女は市がなぜ医者になるのをやめたか問いただした。
「約束を破ることになって大変申し訳ありませんでした。小母さんが私を咎めるのも当然だと思います。本当に申し訳ありません‥‥‥しかし私は身近な人たちの死に接して医学の無力を思い知りました‥‥‥先祖が歩んだ道であり、私も一度は志した道ですが、私ごときが医者になったところで誰の役にも立たないのではないかと思ってしまったのです。そして‥‥‥このご時世ですので、むしろ自分は軍のパイロットになる方が、人々のために、ひいてはお国のために貢献できるのではないかと考えました。そのため、とある経緯のあった海軍に...」
 市は畳に手を付いたままで訥々と述べた。孝子は
「それはそうかもしれないけれども、涼子のこととは‥‥‥」
 関係ない、あなたはどうやって涼子を幸せにするの、と詰問しようとしたが、博倫に遮られた。
「なるほど。そういう気持ちも理解はできるし、お国に貢献しようというのは立派な心掛けだ。しかし、君が約束を果たさなかったことは事実だし、孝子がこだわる訳もよく分かるだろう? ここは一つ時間を置く必要があると思うが、どうだろうか‥‥‥」
 さらに話は続いたが、結局その方向で収まり、祝言は延期になった。

 だが、お国に貢献するという一言は重みがあった。それはある意味この時代の男子の義務でもあった。それを市が果たすのなら(ほまれ)である。故にそのような男を無下にできないのも事実であった。娘の世俗的な将来をおもんばかっての約束など、何ほどの意味があろうか。
 しかし、それはそれ、これはこれで、娘たちの安定した幸せを願うことも母親の努めなのだ。
 彼女はなんとか気持ちの折り合いを付けようとしたが、今度は市が大陸に行ったっきり戻らなかった。さんざん気を揉ませた挙句に内地に戻ったのは昭和十六年(一九四一)で、それもわずか三か月であった。二人は慌ただしく祝言を挙げたのだが‥‥‥
(まったくあの子ったら、どこまで私たちをかき乱すのかしら?)
 ぽっちゃりした市の童顔を思い出すと、孝子は忌々しい気分になった。おまけに、涼子はもういい年(二十七)なのに出戻りのようなありさまで、家にいるのだ。もちろん子供もいない。
「ああ、なんでこんなことになっちゃったのかしらねえ‥‥‥」
 とうとう口に出してしまった。
 彼女は嫌なことを打ち消そうと目をつぶり、「はぁ」とため息をついた。

 しかし、その市が連日米軍機と死闘を演じていることなど、知る由もなかった。四月にドゥリットルの東京空襲があったとはいえ、昭和十七年夏の内地ではまだこんな日常風景が繰り広げられていた。
 涼子は別としても、一般の人々にとって戦争はまだ遠い世界の出来事であった。
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