受難と再生(晶子の場合) 2

文字数 2,330文字

 小柄な晶子は、殴られるたびに毬のように転がった。それからは毎晩のように悲鳴と派手な物音がした。夫婦は二階にいたが、階下では両親が息を殺してこらえていた。
「真心さん、娘に手を上げるのは止めてもらえんか」
 あるとき、たまりかねた父が意見したが、聞く耳はなかった。
「大体、あんたらの躾が悪いからこうなるんじゃねえか。こんな時化た寺、いつでも出てってやるぜ。だがな、金は倍にして返してもらうからな、分かってんだろう」
「金はどうでもよい。とにかく無体なまねは止めてくれ」
「へ、そう簡単には行かねえんだ。ここはもう俺の寺だ。あんたの指図は受けんぞ」
 しかし、寺の金も遊郭通いでどんどん減っていた。

(涼ちゃん、助けて‥‥‥)
 聡明なはずの晶子が何も考えられなくなっていた。
 涼子のもとにも行けなかった。青痣だらけの彼女を真心が外に出さなかった。少しでも外に出れば余計に殴るのである。だが、思い余った母が青木宅を訪ね、この事実が涼子に伝わった。彼女はすぐさま寺を訪ね、晶子の痣を見て驚愕した。
(なんてことなの、これは‥‥‥)
 彼女は魂が抜けたようになった晶子を抱きしめ、何度も強く言った。
「晶ちゃん、わたしが絶対に助けるから気をしっかり持って! ねっ!」
 涼子は市に何とかしてもらおうと考えたが、市は医科大学学生と飛行学校教員という二足の草鞋を履き、満洲で超多忙な日々を送っていた。警察に伝手のある父も、その手の問題には立ち入れないと首を振る。
 困った彼女は寺の檀家に相談した。これが良かった。実は彼らも晶子の状況に心を痛めており、衆議一決、真心を叩き出すことになった。ある男が真心を尾行し、妓楼に入り浸る決定的な写真を撮った。男は妓楼の中までも追跡したのだ。そんな証拠写真がたくさん揃った。

 彼らは寺の墓地に真心を呼び出し、難詰した。
「真心さん、晶子ちゃんに手を上げるのはやめなされ。だいたいあんた、そんな行いが仏様に仕える者として相応(ふさわ)しいかも分からんかね」
「あんたらもうるさいな。わしは晶子があまりに行き届かんので躾をしてんだよ。悪いのはあんな娘を育てた親だ。夫婦のことに余計な口出しをせんでくれ」
「だからあんた、そういう躾はやめなさいと言うておる」
「あのなあ、檀家ごときにどうこう言われる筋合いはねえんだよ。ごたごたぬかすと破門するぜ。金も出さねえくせして口だけ出しやがって」
 檀家たちはカチンときた。
「真心さん、あんたがどうしても悔い改めないってんなら、われわれにも覚悟があるが、それでよいかね? あんたここに居られなくなるよ」
「へ、やれるもんならやってみな。わしに手え出すと大変なことになるぜ」
 真心は彼らを見回し、すごんでみせた。高をくくっていたのだ。

 かくて話し合いは決裂し、檀家代表が連名で正式な告発状を本山に送付した。例の写真が何枚か添えられていた。また、写しが真心の実家にも送られた。
 それからも何がしか経緯があったが、結局真心は本山から破門された上に婿養子も解消され、どこともなく姿を消した。
「わしが悪かった。あの男の正体を見抜けなんだ。晶子済まなかった。どうか許してくれ」
 父は泣きながら謝った。母は晶子を抱きしめて泣いた。幸いに子供を孕んでいなかったのが救いだったが‥‥‥

 ひと月ほどして晶子の体の傷は癒えたが、心の傷は癒えなかった。気分がすぐれず、楽しいと思うようなこともない。もちろん、笑うこともなかった。
 そんな彼女を心配し、涼子は暇さえあれば彼女を外に連れ出した。あてもなく歩き回ったり、やはり緑が良いのかと新宿御苑を散歩したり、明治神宮や小石川植物園まで足を延ばしたりした。二人ともあまり興味がないのに映画を見た。たまにレストランにも入り、洋食を食べた。
 あるとき甘味処という店に入った。涼子は好きだが、晶子はあまり気乗りしなかった。
「晶ちゃんは甘いものは好きじゃないんだった?」
「ううん、どうかな。うちでも和菓子は出すけど、自分からはあまり食べないね‥‥‥」
「ふーん、でもここのお汁粉はおいしいよ。きっと好きになるわ」
 食べてみると、汁粉はほどよい甘さで好ましい味だった。中に小さく切った餅が入っており、それもよく合っている。
「本当。おいしい」
 涼子は得たりという顔になった。晶子は、どちらかといえば煎餅のような塩気のものが好みだった。だが、ここで甘いものを食べたら気分がなごんだ気がした。彼女は素直にそれを口にした。
「なんだか気分がなごむね。ほっとする」
「そうでしょ、そうでしょ。また来ようよ」
 晶子は甘いものの効用に初めて気づいた。
(庶民にもいろいろ楽しみがあるのに、私はあまり触れてこなかった‥‥‥)
 父の教育もあって、彼女は子供の頃からかなり禁欲的に生活していた。何かが一つ胸に落ちた気がした。

 その週の日曜日である。二人はあまり知らないところを散策していた。まったくの偶然だったが、とある教会の前を通りかかると、とても奇麗な歌声が聞こえてきた。入口は開いており、二人はどちらともなく建物に入っていった。
 実は晶子は今日の今日まで賛美歌を聞いたことがない。そもそも教会を忌避していた。だがあまりの美しさに呆然とし、涼子に促されて一番後ろの席についた。オルガンの音色と歌声を聞くうちに、彼女の頬は涙で濡れていた。
 やがて歌が終わり、牧師が祈りを捧げてその場は散会になった。
 信徒たちは談笑しながら三々五々席を立っていく。どの人もごく自然に二人に会釈を送り、涼子も会釈で返した。彼女も立とうとしたが、晶子の様子を見て坐り直した。
 最後に取り残されると、牧師がゆっくりと近づいてきた。彼は涼子が立とうとするのを制し、晶子の隣に掛けた。
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