師の死 1

文字数 2,118文字

 十二月下旬、市たちの航空隊は、ムンダというソロモン最前線の基地に進出することになった。
 そこは陸海軍が共同で心血を注ぎ造成した飛行場で、ニュージョージア島の北西端付近に位置し、ガダルカナル島までわずか一七〇浬という距離であった。しかしその近さ故に、基地設営中から激しい敵機の銃爆撃を受け、艦船による資材や人員の輸送もたびたび被害を受けていた。

 進出を翌日に控えた夕方のこと。
 市は見知らぬ若者の訪問を受けた。陸軍航空隊の曹長である。おそろしく折り目正しい敬礼をし、その男は言った。
「濠少尉殿。荒木であります。お久しぶりでございます。その節は亡父が満洲で大変お世話になりました。一度あらためてご挨拶と御礼に伺うべきところでしたが、今日になってしまいました。どうかご無礼をお許しください...」
 それは、かつての師・荒木の息子であった。市が満洲を去ってから一度も会っていなかった。そのとき彼は中学生だった。
「そう、君が荒木さんの‥‥‥ああ言われてみればそうだ。あのときの面影がある‥‥‥立派になったね。ご存じのように、私は荒木さんにはこれ以上ないほどお世話になったのですよ。何か君たちに報いることができればと思ううちに、今日まで来てしまいました‥‥‥」
「いえ、そのようなもったいないお言葉を‥‥‥」
 このとき、めずらしく市は感極まった。鈍麻したはずの感情が彼に押し寄せるのは、おそらく荒木に関することだけだろう。
「今度来た戦闘機隊にいるの?」
「はい。五日ほど前に当地に進出してまいりまして、なんとこちらに濠少尉殿がおられると聞き及び、飛んでまいった次第です」
「そう、それはお気づかいありがとう。私はまた明日から前線に進出するけれど、いずれ一緒に飛ぶ機会があるかもしれないね。その前にゆっくり話がしたいな。今日は時間はあるの?」
「は、大変にありがたく存じますが、自分はこれから任務がありまして」
「そうか‥‥‥。では、一つだけ言っておくよ。ここの敵は非常に手ごわい。故に君には決して死に急ぐことなく、息の長い戦いをしてほしい。必ず十機撃墜すること。それを達成したら次は二十機。よいですか。生き残ることが勝つことです。最後まで生き残るんですよ。絶対に‥‥‥そのために必要な全てを、私は君のお父上から授かりました」
 いつもの本音である。
「は! 貴重な戦訓のご教示、心より感謝申しあげます。ご忠告、謹んでうけたまわりました。肝に銘じてまいります。‥‥‥では、突然でしたが本日はまことにありがとうございました。少尉殿もどうかお元気で」
「うん、こちらこそありがとう。わざわざ来てくれてうれしかったよ。また会おう! あ、ちょっと待って‥‥‥これを皆さんで」
 市はムンダで整備員に渡すつもりだった酒を彼に贈った。
 荒木は固辞したが最後に受け取って丁重に礼を言った。別れ際も鮮やかな敬礼をした。

 その夜、市は自室の寝台に端座し、師を偲んだ。半ば封印していた記憶がよみがえり、“あのとき”の光景がありありと脳裏に浮かんでくる。
「荒木さん‥‥‥」
 それは市が奉天の医科大学予科を卒業し、本科に入学した昭和十一年(一九三六)四月一日、式典の日であった。その日に、市にとってかけがえのない大切な人たちが三人も命を落したのだ。
 ちょうど昼頃だった。
 式や訓示が終わり、市たち新入生は屋外に出た。そのときである。
 ドーン、ガガーン! グワーン!
 どこか遠くで大きな音がした。
 市は、とっさに飛行場で何かあったと直感し、同級生の自転車を借りて現場に急行した。着いてみると案の定、機体の残骸のようなものが炎上して黒煙が上がっている。そして、それから少し離れたところに“何か異様な物体”が存在し、周囲に幾人かがうずくまっていた。
(あれは‥‥‥?)
 その何かが何だと分かった瞬間、彼は人垣を突き飛ばし、駆け寄っていた。
 それは荒木が後ろから新井(荒木の同期のパイロット)を抱いた姿だった。しかしそうと分かるのは胸部から上だけで、新井の左腕はなく、二人とも胸から下は原型をとどめていない。砕けた骨のために体の中味が飛び出している状態で、内臓や肉片が散乱し、とても正視できる光景ではなかった。
 市は獣の様な叫び声を上げ、血だらけになるのも構わず、荒木に抱き着いた。
「荒木さん! 荒木さん!」
 その死顔に頬ずりをし、いつまでも呼び続ける。
 市の顔は涙と悲しみでぐしゃぐしゃである。このようなことは、五歳のときにある事件によって感情を失って以来、初めてであった。

「機長どの(市のこと)‥‥‥」
 しばらくして、その彼を優しく遺体から引き離したのは、同じ陸軍出身で荒木たちの後輩にあたる米田である。
「お二人を棺に納めましょう」
「はい‥‥‥」
 飛行訓練に事故はつきものである。いざというときのために会社では棺を確保してあった。それを急遽取り寄せたのである。
 そのあと、市と米田が中心となって遺体を回収した。事務棟に運び、二人の体を丹念に修復する。新井の左腕がどうしても見つからず、夜になって市が発見した。
 ところが、その同じ頃に市にとって大切な人物の三人目、濠隆政が病院で息を引き取ったのだ。
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