南方からの手紙 1

文字数 1,885文字

 さて、ガダルカナル島から一千キロ離れたラバウルである。

 市はトラック基地から陸攻の連絡便でラバウルに戻った。
 それからは以前のようにガダルカナル方面の飛行に従事した。
 師団による総攻撃に失敗した陸軍は、懲りずに兵力の増援を行っていた。そのため艦艇輸送の上空支援や、いつものガダルカナル島攻撃隊の直掩を行うわけだ。直掩の場合は市が二個小隊六機を指揮し、陸攻隊の前上方に占位して制空的に任務を果たした。だが、十一月上旬は天候が悪いことが多く、ガダルカナル島まで達したのは一回だけである。
 敵も相変わらず海兵隊航空隊が主体だったが、ロルたちは()うに島を去っていた。彼らは六週間の前線勤務が終わるとローテーションし、豪州で休暇を過ごすのである。このときは、別天地の楽しみがそろそろ終わる頃であった。

 そのガダルカナル島まで飛行した日は、市たち六機は優位から敵の八機編隊に襲い掛かり、三機を撃墜した。「楽な空戦」である。どうやら敵は操縦士が入れ替わり、練度が低下していたようだ。結果的に敵防空隊の排除に成功し、陸攻隊の爆撃も成功した。
 ところが、好事魔多し。

 翌日、飛行から戻ると、市はひどい眩暈(めまい)を感じた。実は前日からだるさがあったが気にしていなかった。だが、体温を測ってみると四〇度を超えている。ついにマラリアに罹ったかと慌てて医務室に行くと、木下軍医中尉が診察した。彼は応召の軍医で市と同い年である。市が医科大学予科に通っていたことで話がよく合った。
「濠さん、これはデング熱だよ。少し寝てればいいよ」
「ありがとう。助かりました‥‥‥」
 市はほっとした。

 幸いに三日ほど寝込むと解熱し、彼は指揮所に現れた。実はこの日が、例の新しい航空隊に転勤する日だったのだ。
 彼は幹部に申告を済ませた。
「君が濠少尉か。君のことはよく聞いている。無理するな。ゆっくり休んだらどうだ?」
 飛行長が注意した。
「いえ、大丈夫です。重要な局面ですからこれぐらいで休んでいるわけにはいきません」
「ふむ、それはそうだが‥‥‥」
 陸軍は例の総攻撃失敗から、さらに新たな一個師団をガダルカナルに送ろうとしていた。すでに一部は艦艇輸送で揚陸済みだったが、やはり船団輸送を行う必要があった。その予定が目前に迫っていたのだ。まさに重大局面である。
 市は自ら申し出てさっそく空中に上がった。この日の任務は新しい搭乗員を連れて艦艇の護衛だ。
 しかし‥‥‥

 確かに誰かが行かねばならなかったが、市である必要があったのだろうか?
(ううむ? おかしい‥‥‥)
 まだ上昇中というのに急に胸が苦しくなり、冷汗がだらだら出て来た。目の前が暗くなる。
(まずいな‥‥‥。また熱発か?)
 とてもではないが艦艇の護衛どころではない。彼は列機に異常を伝え、基地に戻った。着陸も市にしてはお粗末だった。
「どうしたんですか!」
 旧知の整備員たちが翼に駆け上がった。彼らに手伝ってもらい市は操縦席から降りたが、胸がむかむかしてドバァーっと戻してしまった。それはどす黒い血だった。みんながぎょっとして市を見ると、そのまま四つん這いになっている。
「たいへんだ。分隊士、しっかりしてください!」
 整備員たちは口々に叫び、とりあえず医務室に担ぎ込んだ。市はほとんど意識がない。さきの木下中尉が応対した。
「何があったんだ!」
「飛行機から降りたら血を吐きました!」
「なにい?」
 整備員に手伝わせて市を横たえると、木下は慎重に診察した。血の付いた服をはだけるると、体のところどころに皮下出血がある。発熱、吐血などの症状を合わせ、デング熱とは別な伝染病が疑われた。
 彼は自らハンドルを握り、市を海軍病院に運んだ。自動車や飛行機などの乗り物が好きで、それも市とウマが合ったのだ。
 トラック島にも連絡を取ったが、似たような症状の患者は出ていなかった。もちろんラバウルでも出ていない。彼は上官とも協議し、結局隔離措置はとらなかった。もっとも船団輸送の大作戦が目前に迫っており、隔離どころではなかったのだが‥‥‥
(万一これが重大な伝染病だったら、俺は切腹もんだな。‥‥‥いや、切腹どころでは済まんか)
 しかし彼はポーカーフェイスを通した。

 一方、市はすぐさま入院になったが、今度は鼻血が止まらなくなり、吐血も再発する。おまけに下血まで認められた。虚脱状態に陥り、精神も不穏になってうわ言を言い始める。その様子を見た軍医や看護婦たちは顔を見合わせた。
(これはいったい何の伝染病なのか?)
 彼らは急いで防毒面をつけ、厚手のゴム手袋にゴムの前掛けを装備した‥‥‥

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