受難と再生(晶子の場合) 1

文字数 2,410文字

 同じ頃、場面は東京の四谷に移る。

 大通り沿いの日本茶屋で涼子は晶子(しょうこ)と会っていた。二人は茶菓子をつつきながら茶を飲んでいる。
 晶子は小学校時代からの親友だが、今は尼僧である。この茶屋とはいわゆる待合ではなく日本茶を売る店で、彼女の寺で出す茶を扱っていた。一部の客だけだが、奥の座敷で茶を味わうことができる。二人が会うのは三か月ぶりだ。このところ涼子は暇だが、寺を差配する晶子は忙しく、彼女たちはやっとこの時間を持てたのである。
 貴重なひとときに二人とも子供時代の口調で話している。
「晶ちゃん、私ちょっと辛くなっちゃったのよ‥‥‥この間市ちゃんが帰ってきたばかりなのに、もう待ちくたびれてるの。私っていつもこうなの。待たされてばかりの人生。あ~あ。それに‥‥‥彼、ちゃんと帰って来るのかしら。なんだか不安になってきたの‥‥‥」
 確かに涼子は、市といる時間よりも待つ時間の方が圧倒的に長かった。特に今回はなまじ市と一緒に過ごしたことで、逆にぽっかりと心に穴が開いている。晶子もその辺の経緯は知っているが、心の奥底まではよく分からなかった。

「大丈夫よ。これまで通り彼は絶対帰ってくるから、心配ないって」
「そうかなあ‥‥‥」
「そうよ」
「‥‥‥」
「だって、海に落ちても無事に帰ったのでしょ。南方に行こうがどこだろうが彼は大丈夫よ」
 記憶喪失のとき、市は涼子に「海に落ちて頭を打った」とだけ説明した。もちろん市井の人はミッドウェーの惨敗などまったく知らない。
 戦争が真に大変になるのはまだこれからだが、それは神のみぞ知ることである。銃後の人々は緒戦の勝利の余韻に浸っており、ましてや負けるなどとは夢にも思っていなかった。
「うん。でも無事じゃなくて記憶喪失になったけれど‥‥‥」
「ああ、そうだったね。でも私、彼は不死身だと思う。必ず帰ってくるよ。それからね、涼ちゃんのように待つ相手がいるってことは幸せなことなのよ。もし辛いんだったら、昔のようにたくさん手紙を書いてみたら?」
 だが涼子は手紙を書いても返事が来ないような気がしていた。そうなると余計に辛くなるのは経験済みである。
(かといってこのままでは‥‥‥)
 彼女はジレンマに陥っていた。
「そうねえ、それが‥‥‥」
「‥‥‥」
 一方で、待つ相手うんぬんは晶子の本音であり、彼女自身の胸をもえぐっていた。
(私はいつもあなたがうらやましいの‥‥‥)
 彼女は目の前の涼子が心底幸せに思えた。晶子には待ちたいと思う男はついぞ現れなかった。それどころか‥‥‥
 こう思ったとき、彼女の意識は忌まわしい過去に飛んだ。

 躓きの始まりは大学である。
 彼女はとある史学の権威に書を認められ、女学校を卒業すると非公式の秘書兼聴講生として大学の教室に通うことになった。彼女は上代の古典にも精通し、特に記紀に記される神々の正体に興味があった。
 そこでの学問は非常に刺激的で、毎日が充実して楽しかった。ところが、書生の一人が彼女に執着し始めたのだ。陰気な感じで教室でも目立たない男だった。それが「あ、あれ?」などと帰宅途中に待ち伏せる。しかも何を話すでもなく無言で横に付いてくる。
 最初は偶然と思ったが、三度四度となると彼女も男の意図に気づかざるを得ない。そしてそれは朝大学に通う道筋にまで及んだ。彼女は経路を変えて逃れようとしたが、そんな苦労が煩わしくてならなかった。
 大学内でもまったく話すことはないが、たまに目が合うとニタリと笑う。
 晶子は同年代の男と関わった経験がなく、どうあしらえば良いか分からなかった。
「あの、私に何かを期待しておられるようでしたら申し訳ありません。私は二十歳(はたち)を過ぎたら同門の寺から婿を迎えなくてはならないのです」
 ついに決心してこう言ったが、付きまといは一向に収まらなかった。
 思い余って教授に相談すると、なにがしかの注意が与えられたらしい。ところが、その後は彼女の清書した書き付けが紛失したり、あらぬ噂が立ったりするようになった。
 このような理不尽は彼女の理解を超えており、いつまでも続くうちに疲れ果ててしまった。結局一年少々で教室を引き、男も家までは追いかけてこなかった。
 だが、彼女の受難はそれで終わらなかった。その後に何倍も悲惨なことが待ち受けていたのだ。

 大学通いを辞めたならということで、半年も経たないうちに結婚話がもちあがった。まだ二十歳前だったが、父との約束でもあったため受け入れた。相手は千葉の同門で、三男である。晶子の寺で顔合わせをしたが、結婚は既定の事実のようになっていた。後で知った話だが、先方から高額の支度金があったのである。堅物で気難しい晶子の父は寺の財政を傾けており、金に拘束されてしまったようだ。
 真心(しんしん)と名乗るその男は若いのにでっぷりと腹が出ていた。脂ぎった目つきで晶子を見ながら、べろっと舌を出して厚い唇を舐める。そんな仕草に彼女は嫌なものを感じたが、少し投げやりにもなっていた。
(これが私の運命だったのだ‥‥‥)
 そう思って受け入れたのが大きな間違いだった。

 真心は毎晩晶子にのしかかり、彼女を玩具のように扱った。彼女は一週間ほど耐えたが、ある晩とうとう拒絶した。ひたすら嫌だった。まさに身震いするほど嫌だった。
 真心は激高し、早くも本性を現した。
「なにお高くとまってんだよ。お前みてえな醜女を誰が相手にするか。俺は好きなようにするからな」
 震える晶子に言い放った。
 それからは毎日のように遊郭に通い始めた。否、もともと入り浸っており、場所が変っただけである。真心はとんでもない破戒坊主だった。帰る時間は不規則になり、帰れば帰ったで夜中でも食事の支度を強要する。その食事も気に入らず、茶碗を投げつけた。晶子の書が自分より遥か上をいくのも気に入らない。経も晶子の方が朗々と読めた。
 そしてついに恐れていたことが起こった。真心が彼女に手を上げたのだ。
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