撤収作戦 2

文字数 2,329文字

 小隊長に代わり、勝男が言った。
「俺たちは正式な撤収命令を受けた。命令は原隊復帰である。従って直接エスペランス岬に向かう。米のある者は出してくれ。俺の背嚢にある三升と合わせて等分する」
 しかし米はなく、乾麺麭(かんめんぽう)(乾パン)が一食分だけあった。乾麺麭は五等分してその場で食べ、米は六等分して分配した。小隊長の分は予備として勝男が預かった。
 だが、すでに小隊長は虫の息である。無理に動いたために腸が出てしまっていた。おまけに軍袴(ぐんこ)の裾まで血に染まっている。しかし担架を作る材料がない。腹を縫うという手もあったが、糸がなかった。つまりは手の打ちようがないということだ。
 その夜、勝男は小隊長のために寝ずの番をした。もう別れが来る気がしたのだ。
 そして夜が白みかけたとき、彼は小隊長の体から白い煙のようなものが上がるのを見た。
「軍曹、またな」
 彼は確かに聞いた。小さな声だがはっきりと聞こえた。

——明るくなり、鳥の声で彼は目覚めた。小隊長に触れるとひんやりしている。呼吸もない。
 彼はみなを起こし、静かに伝えた。
「小隊長殿が戦死された」

 ちょうど小隊長をジャングルの際に埋め、手を合わせたとき、またヒュルヒュルヒュルと来た。
「まずい、迫だ!」
 彼らはすぐさま散開し、思い思いの場所に伏せた。グワーン、グワーン、グワーンと炸裂。
 誰かの姿が見られてしまったようだ。しかし幸いにこの攻撃は十発程度で終わった。脅かし半分の攻撃だった。
 勝男はとっさにジャングルを出て岩陰に飛び込んでいた。弾着が後方なので、軽機を背負って五〇メートルほど敵の方に匍匐する。
「くそ、脅かしやがって‥‥‥」
 敵がついでに撃った程度でも、こちらは命がけである。
 繁みの中から見ると、双眼鏡でこちらを見ている将校らしき敵がいる。距離があるため軽機では当たらない。むしろ小銃なら当てられそうだが、彼は持っていなかった。
 後ろを見るが味方は誰もいない。
「おい、誰か銃を持って来てくれ!」
 彼は声を殺して叫んだ。しかし返事はない。
「ちっ、小銃があればな‥‥‥」
 仕方なく装具の置き場所まで這い戻ると、そのうちに他の者も集まってきた。戦場の勘とは大したもので、壕もないのに全員が無事だった。だが、いまさらドンパチやる気もなくなり、彼らは急いでその場をあとにした。

 それからは五名の難行軍である。勝男は本多を抱えているため、どうしても遅れた。追いつくと他の三名はまた先に行くという状況だ。あるとき勝男は言った。
「すまんがここで別れよう。俺たちは後でゆっくり行く」
「いや、しかし‥‥‥」
「まごまごしていると糧秣がなくなるからな。それではお前たちに申し訳ない」
「はあ‥‥‥」
 二名を率いる兵長がしきりと(本多は助からないから置いて行こう)と目顔で訴える。しかし勝男は無視して言った。
「予備の米を分配するぞ。それを持って先に行ってくれ」
 兵長が言った。
「いえ、われわれは(糧秣を)自分でなんとかしますから、それは班長殿がお持ちください」
 確かにこの三名は今のガダルカナル島で最も元気な兵かもしれなかった。それからも互いに意見を言ったが結局それで落ち着いた。
「‥‥‥分かった。すまんがそうさせてもらう。もし可能だったら本多の収容隊を出してくれ」
「了解しました」
 三名は去っていった。

 正直なところ勝男はほっとした。本多が一緒では、いつエスペランス岬にたどり着けるか分からない。途中、糧秣が確保できる目途もない。
(死ぬ人間は少ない方が良い‥‥‥)
 その後二人は、他の日本兵に会わぬよう注意深く歩いた。というのは、糧秣搬送の兵が襲われる話が広まっていたからだ。だが、丸山道と呼ばれる日本軍のジャングル道に出ると、三々五々同じ方向に向かう日本兵と一緒になった。しかし知った兵隊に会うことはなく、ほとんど話すことはなかった。
 ときには幸運もあった。司令所の跡地などがあると、少し離れた場所になにがしかの糧秣が隠されていたりする。兵たちはそれを探し出し、分け合った。このときはまだ本多に意識があり、食べることができた。幸い彼はガス壊疽を発症しなかったが、傷口からの化膿は免れられなかった。
 あるとき一緒になった集団にたまたま軍医がいた。勝男は頼み込んで本多を診てもらった。軍医は切を入れて排膿したが、一時的な処置に過ぎなかった。
「軍医殿、如何でありますか?」
 勝男が尋ねると、やや年配の応召らしき軍医はあっけらかんと言った。
「うむ、傷自体は大したことないが、骨が腐りかかっとる。もう切断せんとだめだが、わしにはできんよ」
「はあ‥‥‥なんとか別な方法はないのでしょうか」
「あったとしても、どのみちここじゃあどうにもならん。ラバウルまで命がもったら手術してもらえ‥‥‥あるいは軍艦の中で海軍さんにやってもらうか」
「はあ。でも自分たちはこれから逆上陸作戦に参加するので‥‥‥」
「なんだ、君は知らんのか?」
 軍医が勝男の顔をまじまじと見た。
「とおっしゃいますと?」
「われわれはこの島から撤退するのだ」
「えええ!? 本当でありますか?」
 勝男は驚愕し、軍医は慌てた。
「おいおい、大声出すな。あくまで噂だよ、噂」

 その後、勝男は歩くペースを早めた。
(助かるかもしれないのか)
 逆上陸作戦など死にに行くようなものだが、撤退ならば話が違う。
「おい、撤退するって本当か?」
 休んでいる者がいると、片端から尋ねた。確かに撤退の噂は広まっていた。
 しかし内陸部の前線はすでに崩壊している。今頃米軍はかなり西に押し出して来ているだろう。まごまごしていれば敵に先回りされる。噂の真偽はともかく、急がねばならない。
 彼は、これまでと打って変わって気分が急いた。
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