市の未帰還 3
文字数 1,939文字
その市だが、もはや前進基地まで戻れないことは分かっていた。さすがの零戦も全速で一時間半も空戦し、前進基地とガダルカナル島を往復することはできない。おまけに左のエルロンを破壊され、右のエルロンも動作が悪い。
「ううん、ちょっとやり過ぎたなあ‥‥‥」
最後の二機さえ来なければだが、天罰てきめんであった。権藤の仇も取り損なった(と思っていた)が、これだけやれば許してくれる気がする。
それはともかく、機速を落すと機体はますます不安定になった。左にバンクできないのに左に傾く。それを右エルロンと方向舵で修正しつつ、かろうじて直進を維持する。横滑りしながら飛んでいるが、気流などで煽られればそのまま墜落するだろう。これでは陸上はもちろん海上の不時着も無理だ。発動機だけ快調に回っているのが救いだが、これは富田のおかげだった。彼は良い部品や材料を確保しておき、市や権藤のために惜しみなく使ってくれた。まさに“とっておき”の整備だったのだ。
市は金縛りのような状態でそろりそろり高度を取り直したが、ようやく五百メートルほどになったとき、ついに燃料が尽きた。
落下傘降下にはやや高度が低いが飛び降りるしかない。
「‥‥‥涼ちゃん、ぼくに力を貸して」
そう祈ると強引に機体を傾け、力の限り椅子を蹴って飛び出した。
ところが。
「だめだ!」
索を引いても開傘できず、みるみる海面が迫る。これではミッドウェーの再来だ。彼は後ろ手に落下傘を揺すぶる。しかし開かない。海面は目の前‥‥‥とうとうそのままバーンと入水してしまった。だが、その寸前に両手を合わせて体をぴんと伸ばし、足から真っ直ぐに落ちた。
今度は気絶しなかった。どこまで潜ったか分からないが、明るい方に向けてもがく。意外に救命胴衣の浮力が強く、程なくしてザバアーっと海面に出た。
「ぷはっ!」
水を吐き出す。呼吸が苦しい。
周りには舟の一艘もおらず、遥か遠くに島影が見えるだけである。真昼間だが妙に風が静かでチャプンチャプンと波の音のみ。ところどころの雲間から太陽がまだらに照り付けている。考えてみれば空も孤独だが、海の上も孤独だ。胴衣の浮力もそのうちには無くなる。
(このまま誰にも知られずに野垂れ死ぬのかな? ううむ、それだけは避けたいな)
海上に落ちた者は誰でもこう考える。もちろん、鱶 にでも襲われればお陀仏である。胴衣の内に差したはずの拳銃はなく、身には小刀一本つけていなかった。
「涼ちゃん、ぼくにもっと力を貸して‥‥‥」
手足が痛むが、一応動かせる。
しばらくは浮力にまかせて浮かんでいた。何しろ落下傘も開かずに海面に叩きつけられたのだ。これだけで済んだのは逆に奇跡的とも言える。子供の頃に、大連のとある場所で岩棚から滝つぼに飛び込む遊びを毎日やっていた。それが役に立ったのだろうか‥‥‥?
彼の機体はニュージョージア島の北岸沖合を通過しており、コロンバンガラ島とチョイセル島の中央付近で落下傘降下した。もちろん、この辺りの地形は完璧に頭に入っている。
(あの富士山のような島がコロンバンガラ島。とすると右がベララベラ島、後ろがチョイセル島だ)
念のためぐるりと見直す。
空から見るのと、海上とではかなり様子が違うが間違いはない。
彼はコロンバンガラ島に向かって三十分ほど抜き手を切ってみたが、島影は一向に近くならなかった。
「‥‥‥おや?」
疲れて休んでいると、四角いものが浮いていることに気づいた。
近づくとそれは木箱だった。おそらく日本のもので、誰かが棄てたのだろう。由来は分からないが、これは天に授かった幸運だった。救命胴衣はいずれ水を吸って役立たなくなるため、これがなければ水泳の苦手な市は海に呑まれていたかもしれないのだ。
「‥‥‥神様、涼ちゃん、ありがとう。これで何とかなるかもしれない!」
彼は箱に上体を乗せて足を動かすが、木箱自体が抵抗になってあまり進まない。しかもコロンバンガラ島はだんだん左にずれていく。どうやら潮流で西に流されているようだ。彼は母艦以外に艦艇乗組みの経験がなく、遠泳の経験もなかった。こういう状況でどうすべきか今ひとつ分からない。そのうちに日が陰り、スコールがやってきた。飛行帽に受けて貪るように飲んだ。意外にたくさん飲めた。
前進基地では、この日の夕刻に市と権藤の未帰還が確定した。分遣隊長室で事務掛士官がそれを報告している。ちなみに権藤の救出についてはまだ連絡が来ていない。
「...あの二名が帰らないとは、まことに信じがたいことですが‥‥‥」
「ふむ、もうよい。ご苦労」
士官は沈痛な表情だが、九ノ泉はひと言で片づけた。
額には縫った絹糸を付けたままで、怪奇映画のフランケンシュタインのような趣 である。
「ううん、ちょっとやり過ぎたなあ‥‥‥」
最後の二機さえ来なければだが、天罰てきめんであった。権藤の仇も取り損なった(と思っていた)が、これだけやれば許してくれる気がする。
それはともかく、機速を落すと機体はますます不安定になった。左にバンクできないのに左に傾く。それを右エルロンと方向舵で修正しつつ、かろうじて直進を維持する。横滑りしながら飛んでいるが、気流などで煽られればそのまま墜落するだろう。これでは陸上はもちろん海上の不時着も無理だ。発動機だけ快調に回っているのが救いだが、これは富田のおかげだった。彼は良い部品や材料を確保しておき、市や権藤のために惜しみなく使ってくれた。まさに“とっておき”の整備だったのだ。
市は金縛りのような状態でそろりそろり高度を取り直したが、ようやく五百メートルほどになったとき、ついに燃料が尽きた。
落下傘降下にはやや高度が低いが飛び降りるしかない。
「‥‥‥涼ちゃん、ぼくに力を貸して」
そう祈ると強引に機体を傾け、力の限り椅子を蹴って飛び出した。
ところが。
「だめだ!」
索を引いても開傘できず、みるみる海面が迫る。これではミッドウェーの再来だ。彼は後ろ手に落下傘を揺すぶる。しかし開かない。海面は目の前‥‥‥とうとうそのままバーンと入水してしまった。だが、その寸前に両手を合わせて体をぴんと伸ばし、足から真っ直ぐに落ちた。
今度は気絶しなかった。どこまで潜ったか分からないが、明るい方に向けてもがく。意外に救命胴衣の浮力が強く、程なくしてザバアーっと海面に出た。
「ぷはっ!」
水を吐き出す。呼吸が苦しい。
周りには舟の一艘もおらず、遥か遠くに島影が見えるだけである。真昼間だが妙に風が静かでチャプンチャプンと波の音のみ。ところどころの雲間から太陽がまだらに照り付けている。考えてみれば空も孤独だが、海の上も孤独だ。胴衣の浮力もそのうちには無くなる。
(このまま誰にも知られずに野垂れ死ぬのかな? ううむ、それだけは避けたいな)
海上に落ちた者は誰でもこう考える。もちろん、
「涼ちゃん、ぼくにもっと力を貸して‥‥‥」
手足が痛むが、一応動かせる。
しばらくは浮力にまかせて浮かんでいた。何しろ落下傘も開かずに海面に叩きつけられたのだ。これだけで済んだのは逆に奇跡的とも言える。子供の頃に、大連のとある場所で岩棚から滝つぼに飛び込む遊びを毎日やっていた。それが役に立ったのだろうか‥‥‥?
彼の機体はニュージョージア島の北岸沖合を通過しており、コロンバンガラ島とチョイセル島の中央付近で落下傘降下した。もちろん、この辺りの地形は完璧に頭に入っている。
(あの富士山のような島がコロンバンガラ島。とすると右がベララベラ島、後ろがチョイセル島だ)
念のためぐるりと見直す。
空から見るのと、海上とではかなり様子が違うが間違いはない。
彼はコロンバンガラ島に向かって三十分ほど抜き手を切ってみたが、島影は一向に近くならなかった。
「‥‥‥おや?」
疲れて休んでいると、四角いものが浮いていることに気づいた。
近づくとそれは木箱だった。おそらく日本のもので、誰かが棄てたのだろう。由来は分からないが、これは天に授かった幸運だった。救命胴衣はいずれ水を吸って役立たなくなるため、これがなければ水泳の苦手な市は海に呑まれていたかもしれないのだ。
「‥‥‥神様、涼ちゃん、ありがとう。これで何とかなるかもしれない!」
彼は箱に上体を乗せて足を動かすが、木箱自体が抵抗になってあまり進まない。しかもコロンバンガラ島はだんだん左にずれていく。どうやら潮流で西に流されているようだ。彼は母艦以外に艦艇乗組みの経験がなく、遠泳の経験もなかった。こういう状況でどうすべきか今ひとつ分からない。そのうちに日が陰り、スコールがやってきた。飛行帽に受けて貪るように飲んだ。意外にたくさん飲めた。
前進基地では、この日の夕刻に市と権藤の未帰還が確定した。分遣隊長室で事務掛士官がそれを報告している。ちなみに権藤の救出についてはまだ連絡が来ていない。
「...あの二名が帰らないとは、まことに信じがたいことですが‥‥‥」
「ふむ、もうよい。ご苦労」
士官は沈痛な表情だが、九ノ泉はひと言で片づけた。
額には縫った絹糸を付けたままで、怪奇映画のフランケンシュタインのような
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