伝道女 1

文字数 2,307文字

 海上に黎明が訪れた。
 ベララベラ島が大きく見えている。計算通りだ。
「涼ちゃん、ありがとう‥‥‥これで助かったと思うよ」
 天気は悪く、まだ雨模様である。
 潮流に逆らうため、市は南東に向かうつもりで足を動かした。今度はかなり必死である。島を外してしまったらもはや生きる道はない。最後はとうとう箱も捨てた。必死の思いで抜き手を切り、下手くそな泳ぎを続ける。そのおかげか、胴衣の浮力があるうちに潮流から分離できた。
 かくて彼はベララベラ島の東岸にたどり着くことができた。
 この島はサンゴ礁が多く、切れたところを探した。気力をふり絞り、よろよろと上陸する。だが水から出ると歩くに歩けず、がっくりと膝をついた。足が萎えてしまったのだ。
 砂浜は狭く、彼はジャングルの際まで這って行き、そのまま突っ伏した。

——どれぐらい倒れていたかは分からない。何か気配がして起き上がろうとすると頭に衝撃を喰らい、再び昏倒した。気がつくと彼は丸太小屋に寝かされていた。頭がズキズキし、体もあちこち痛むが、なぜか縄の様なもので手首を縛られている。市の腕力なら緩めることはできるが、そのままにしておく。
 しばらく休んでいると声が聞こえ、人が入ってきた。絵本で見る伝道師のような服装の欧州人女と、現地人の男女だ。市は起き上がって胡坐(あぐら)をかいた。
(ふうむ、どうやら首を狩られることはなさそうだ‥‥‥)
 この島には首狩り族がいると信じられていた。

 伝道女が口を開いた。
「アナタハ、ニホングンノパイロットデスカ?」
 抑揚はおかしいが日本語だ。
 市は驚愕したが、飛行服を着ているため身元を隠しようもない。黙ってうなずく。
「ナマエハナントイイマスカ?」
「‥‥‥山本です」
「ショウコウデスカ?」
「‥‥‥」
「イイタクナイコトハイワナクテイイデス」
 どうも雲行きが怪しい。この女は敵か? 
 市も尋ねた。
「あなたは誰ですか。なぜ私を縛るのですか?」
「ワタシハえれな、ドイツジンデス。アナタノトモダチ」
 これは意外である。
「だったらエレナさん、縄をほどいてください。私は何もしませんから」
「ダメデス。アナタハアバレマス」
「いいえ、私は暴れません」
「ダメデス」
 エレナが何かを命じると、現地人の女が持っていた椀(椰子の殻)を差し出す。たっぷりと水が入っており、市は縛られた手で飲み干した。怖ろしく喉が渇いていた。実は上陸してからほぼ一日がたっていたのだ。
「あなたは何故日本語を話せるのですか?」
「イイシツモンデス。ワタシハコドモノトキ、ヨコハマニイマシタ。ダカラニホンゴ、シャベレマス。デモ、ジハワカリマセン」
 こんな南海のジャングルの果てで日本語を話す欧州系の女。奇妙極まりないが、まぎれもなく現実である。
「なるほどそうでしたか‥‥‥。それで、私はここで何をするのですか」
「アナタハオキャクサンデス。アナタハナニモシマセン。デモニホンニカエレマス。ソレマデチョットオマチクダサイ」
 意味がよく分からない。
「この島に日本人はいますか?」
「イマセン」
「分かりました。外へ行ってもいいですか?」
「ハイ。デモジャングルハダメデス。ミチワカラナクナッテシニマス」
「分かりました。気を付けます」
 別な現地人の女が来て、追加の水と椀に入ったイモのようなものを置いて行く。市が笑い顔を作ると女も歯を見せた。彼は水を飲みながらイモを食べた。

 その連中が外に出たので市も外に出た。残ったイモはポケットに入れる。
 真昼間だ。雨はあがり、太陽が照り付けている。そこは小さな広場で、左手に伝道所らしき少し大きな小屋があり、市のいた小屋の向かいにもう一つ小屋がある。女たちは市に関心を失ったかのように、それぞれ小屋に入っていった。どうせどこにも行けないと思っているのかもしれない。
 市はここがどこか聞くのを忘れた。見渡すと、おおむね四方に獣道のような道が伸びている。彼は一つを選んで歩き始めた。ジャングルに入り、まずは縄を緩める。ともかく海岸を探す必要がある。
 道はくねっており、外れると迷うので慎重にゆっくり歩く。目印に枝や葉っぱをむしる。起伏があり、倒木などの障害物や湿地もあって距離は伸びない。取り敢えず十五分ほどで引き返し、二つ目の道に入る。
(たぶんこっちが東だ‥‥‥)
 市の知るかぎり、ベララベラ島には敵も味方もいない。
(でも確か、この島の南端の沖合にギゾという島があり、海軍の水上機基地があったはずだ。陸軍の舟艇航路の拠点もできる予定だった。つまり、そこまで行けば友軍がいるのだ‥‥‥)
 なので一刻も早く脱出し、島の南端まで行かねばならない。市はとうとう縄をほどいた。

 道の途中で現地人の男に出くわした。互いに距離を取って相手を睨みつけるが、腰に巻く布に文明の匂いが感じられ、エレナに仕える男だと直感する。市は笑顔を作り、椰子の実を探していると手振りで示す。結局伝わらないが、男は何度も振り返りながら去っていった。
 だが、この道は当たりだった。そのうちに波の音がし、海岸に出た。遠くにコロンバンガラ島が見える。
「ということは、ここはやはり東岸だな」
 気絶させられたが、全然違う場所に運ばれたわけではなかった。どうやら現在地点はベララベラ島の東北端近くのようだ。市は来た道を戻った。できれば村で水を調達したい。
 と、そろそろ広場に出るかなという辺りで、前に大男が立ちふさがった。手には棍棒を持っている。市を指さし興奮しながら怒鳴っているがさっぱり分からない。睨み合っていると、がさがさ音がして、両脇から出て来た男に腕を抱えられた。後ろにも一人現れる。
(しまったな、先を越されちゃった‥‥‥)
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