南方からの手紙 3

文字数 1,878文字

(あれから十年か‥‥‥)
 幼くして彼女は市と“婚約”した。
 だが、よんどころない事情で市は満洲に旅立ち、二人は遠く引き裂かれた。十年たって彼女はようやく渡満することができ、市と劇的な再会を果たした。それがちょうど十年前の夏である。土埃の舞う大連の飛行場だった。
 その翌年の夏、彼女は博一を連れて再び渡満した。
(あのときこの子は小学生だった。市ちゃんににあこがれてたのよね‥‥‥)
 博一はパイロットになる夢を抱いていた。そして市はサルムソンという二人乗りの飛行機に特別な補助椅子を取り付け、博一を乗せて空を飛んでくれたのだ。そのときの博一の感激ぶりといったらなかった。しかもその椅子は、むかし市が小学生のときに使ったものだという。そんな頃から市は荒木という陸軍出身のパイロットに操縦を教わっていたのだ。
 博一は市を「市お兄ちゃん、市お兄ちゃん」と慕い、市も彼を可愛がってくれた。涼子はなんだかとても誇らしかったことを覚えている。
(あのときは、私もこの子も向こうのみんなに大歓迎された‥‥‥「ぼくも市お兄ちゃんんみたいなパイロットになります。絶対になります」なんて宣言していたっけ)
 博一はますます市に心酔し、東京に帰ってからもずっと『市お兄ちゃん』『パイロット』一色であった。
 ところが現実は辛かった。

 彼は中学に進んだが、その受験勉強の最中に視力が低下し始めた。それは中学に入ってから余計にひどくなり、「ど」が付くほどの近眼になってしまった。彼はパイロットどころか海兵にすら行けなくなったのだ。
 そして一時期死を考えるほどに絶望したが、市や涼子の励ましによってなんとか立ち直った。その後、人が変ったように猛勉強し始めた。見事、中学四年修了で超難関の一高に合格し、現在その三年である。今はまた受験勉強に精を出している。無論、次に彼が向かう先は帝国大学であり、その先は内務省官吏だった。
(この子には輝かしい未来が待っている‥‥‥よくぞ挫折を乗り越えたわね)

 ちなみに、この件で愁眉を開いたのは孝子だろう。彼女は、涼子と夏子は道を誤ったと思っている。しかし女だということで諦めもついた。だが、博一は跡取り息子だ。それがパイロットになるなどとんでもないと思っていた。彼女は、彼が市に傾倒する様子を見て気が気ではなかった。市という人間はどこまで青木家に害を成すのかと恨んだ。
 あるとき、その悩みを夫の博倫に訴えた。
「あなた、博一のことだけど、困っているの。市ちゃんなんかに入れ込んでしまって、パイロットになるなんて言っているの。もしそんなことになったら、私はあなたにも顔向けできないし、お義父さま(陽蔵・故人)やご先祖様に申し訳が立たないわ。いったいどうしたら良いでしょう。あなたから何とか言ってやってくださいません?」
「うん、そのことは私も知っている。でもね、孝子。子供の時ぐらい、好きにさせてやろう。大丈夫だよ。博一を信じよう」

 しかし彼女は信じられなかった。毎日が身もだえするほど苦しかった。だが、夫の言葉を無視して博一をパイロットの道から遠ざけることもできなかった。
 故に、博一の視力が落ち始めたとき、彼女は「天の助け」と思った。しかもそれが一時的でなく、より一層悪化したことを知ると、密かに神に感謝した。博一本人には気の毒だが、心底「天は青木家を見放さなかった」と思った。
 今思えば、近眼は博倫からの遺伝だろう。涼子は普通だが、夏子もひどい近眼である。おそらく夫はそれを見通していたのだ。彼女は夫の意向を無視するようなことをしなくてよかったと思った。
 すでに博一は一高に通い、将来への道(帝大・内務省)も開けている。
 孝子は自分の努め、すなわち「青木家を次代につなぐこと」を半ば達成したと満足した。あとはみなの幸せを見守っていけばよいのだ‥‥‥。

 涼子はそんな母の悩みや葛藤も知っている。かといって市のことで一切妥協はしなかった。自分が博一の人生を横に逸らそうとしたとも思わない。もちろん青木家の行く末についてもだ。
 そんな、あれやこれやを反芻し、思わず口に出した。
「博一よかったね。博一には博一の道があるのよ」
「え? なんだよ、おねえちゃん。急に変なことを言い出して。よかったのはおねえちゃんじゃないか。お義兄さんが重病を克服したのだから」
「そうよね、うん、その通り。あははは」
「はははは」
 冬空に明るい笑いが吸い込まれていった。
 終わりよければ全てよし。二人はガラっと窓を閉め、階下に降りた。
 この年、青木家はまあまあ平和な一年を過ごしたといえようか。
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