青木家の訪ね人 1

文字数 2,159文字

 新年の松の内が過ぎた頃、東京の青木家に一人の訪ね人があった。日曜日の午後のことである。
「ごめんください」
 野太い声だ。次女の夏子はちょうど外出から帰り、手を洗ったところだった。
「はーい」
 途中、眼鏡をかけるのを忘れたが、(知らない声だからいいや)と思った。わざと髪をばさばさにして玄関に出ると、大柄な男が立っていた。海軍の軍服にオーバーを羽織っている。ちなみに彼女は軍装について陸海軍の区別ぐらいしか分からない。
(市ちゃんの同僚の方かしら?)
 その男は一瞬何かに驚いた様子だったが、挙手の礼をし挨拶を述べた。
「突然おじゃまいたします。自分は権藤といいまして、南方で濠少尉に大変お世話になった者です。奥様がこちらのご実家にいらっしゃると伺い、まことに恐縮ですがご挨拶に参りました」
「あ、さようでしたか。それは遠路はるばる真にありがとうございます。私は涼子の妹の夏子です。姉もすぐにまいりますので、まずはお上がりくださいませ」
 大きな声なので、涼子も二階から降りてきた。
「権藤さんとおっしゃいましたか。濠の家内の涼子です。お初にお目にかかります。このたびはわざわざのご訪問、まことに...」
 彼女にとってこの訪問は干天の慈雨のようにありがたい。なにしろ市の戦友がわざわざ訪ねてくれたのだから。直接市の様子を聞けるのは、まきの手紙以来だ。
 改めて三人は挨拶し、権藤は客間に案内された。涼子が主に話をし、夏子が茶を運んだ。ここに博一も降りて来て話は弾んだ。そのうちには外出から帰った博倫・孝子夫婦も加わり、一家が出そろった。
(にぎやかな、いい家族だな。みんな幸せそうで俺とはえらい違いだ‥‥‥)
 当主の他は全員が洋服なのも彼には斬新だ。
 権藤が気になったのは夏子だが、茶を出した後は引っ込んだまま出てこなかった。
「...ラバウルでは小隊長、あ、濠少尉のことですが、小隊長に本当にお世話になりました」
「ああ、やはりラバウルにいらっしゃったのですか‥‥‥。権藤さんが市ちゃ、ではなく夫とご一緒されたのはいつ頃のことですか?」
 涼子が尋ねた。
 彼女はすらっとした色白の美人だ。朗らかな感じで、笑うと目尻が垂れるのが権藤には印象的だった。
「はい、自分がご一緒したのは八月下旬から九月前半のことです。とても短い期間でしたが、あれほど腕の立つ搭乗員は、まず海軍内にはいないと思いました」
 市のこんなことを聞くのは初めてである。
 涼子は驚いたり、にっこりしたりで忙しくなった。権藤と目が合うとはにかむように微笑する。彼はすっかり涼子が好きになった。
「自分はいつも小隊長と一緒に飛行しておりました。ところがあるとき不本意にも撃墜されたのです。そのときに小隊長がいなければ、いまの自分はここにおりません。小隊長は命の恩人なのです。その後で自分は陸軍に救助され、さらにラバウルに戻り、入院しました。このときも小隊長が見舞に来てくださったのです。あれは本当にうれしかったです。あの気持は生涯忘れられません」
 市が撃墜されたことは言わなかった。
「はあ、さようでしたか、それは大変でございましたね‥‥‥実はその後に夫は病気で入院したそうなのですが、何か聞いていらっしゃいますか?」
「あ、いえ、自分は九月中に内地に戻ったので聞いておりません。でも頑健な小隊長のことですから、すぐに回復なさったのでしょう?」
「あ、ええ、まあ‥‥‥」
「あの辺りの戦況はどうなっているのですか? 差し支えない範囲でお話しいただけませんか」
 珍しく博倫が尋ねた。
「はあ、詳しくはお話できないのですが、ガダルカナルという島をめぐって日米がまさに死闘と言ってよい戦いを繰り広げております。ご存じのように向うは物量がありますから、われわれ海軍もですが、陸軍も大変に苦労しております。失敗もありましたが、いずれ近いうちに大攻勢を掛けると聞いております‥‥‥」
「はあ、なるほど‥‥‥」
 博倫は内務省の幹部に耳打ちされ、日本軍がガダルカナル島から撤退することを知っていた。おぼろげながら、ソロモンの最前線で戦況が傾きつつあるとも感じている。権藤の大攻勢云々を聞き、却ってそれが確信めいたものに変わった。だがそれ以上を話題にするのははばかられた。
 一方、博一が興味があるのは航空戦だ。
「権藤さん、日本軍の戦闘機に適うアメリカ軍の戦闘機はないと聞いておりますが、本当なのですか?」
「はい、本当です。我々の戦闘機は世界一です。自分も空戦で敵に負けたことは一度もありません」
「おお、さようですか。それは頼もしい限りですね」
「あ、ちなみに、自分が撃墜されたのは敵機の爆発に巻き込まれたときでした...」
「へえ、そのようなこともあるのですか」
「ええ、そうなのです。‥‥‥補足いたしますと、私が唯一空戦で負けた相手が小隊長です。もちろん訓練のときですが、小隊長に軽くひねられました。実は私は訓練でも負けたことがなく、恥ずかしながらいささか天狗になっておりました。その鼻をへし折ってくださったのが小隊長です。これも大変感謝しております」
 権藤は遠い目になり、なつかしそうに語った。
「へえ、義兄(あに)はそれほどの凄腕なのですか!」
「はい、まことにその通りです」
 博一は驚き、涼子はまたうれしくなってにっこりした。
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