青木家の訪ね人 2

文字数 2,030文字

「その後も、小隊長にはいろいろと手ほどきしていただきました。それがあって今の自分があると考えております。またどこかで小隊長とご一緒させていただくことを夢見て、自分は日々精進しております...」
 青木家の面々は次第に聞き役に回り、権藤は饒舌になった。彼は温かい家庭というものを知らず、その素晴らしさに打たれて興奮していた。
「自分が伺ったところでは、小隊長は小学生の頃から満洲で飛行機の操縦をされていたとか‥‥‥」
「そうなのです。私はこちらにいて写真を見るだけでしたが、彼は本当に楽しそうでしたわ」
 涼子がなつかしそうに言うと、孝子が意外なことを言った。どうやら彼女は権藤を気に入ったらしい。
「そうそう、あなたそのお写真をお見せして差し上げたら? たくさんあるのでしょ」
「は、はい」
 涼子は少しとまどったが、二階から写真帳を取ってきて見せた。
「‥‥‥はあ、これが小隊長のお若い頃ですか。おお、これはサルムソンですね。懐しい‥‥‥。なんと、本当にこの頃から乗ってらしたのですね。うわあ‥‥‥これは凄い‥‥‥」
 権藤も驚くことしきりである。
 涼子はその様子を見て、自分のことのように喜んだ。彼女にとっても懐しい想い出である。
「このようなことでしたら、小隊長があれほどの技倆を持っておられるのもうなずけます。いやはや、まこと心から脱帽いたします...」
 その後、権藤は酒まで勧められ、泊って行けと誘われるのをようやく断って(いとま)した。
 玄関を出ると、涼子と博一が門まで送りに出る。彼は持って来た手土産の倍ぐらいの土産を持たされていた。
「権藤さん、今日は夫の様子を知らせてくださり、本当にありがとうございました。それで、あの‥‥‥彼はいつ頃内地に戻ってくるのでしょうか。便りもないもので、私、ちょっと心配になってしまって‥‥‥」
 権藤は門灯に浮かぶ涼子の憂い顔を見た。
(本当にいい人だな‥‥‥)
「はあ、さようですか‥‥‥奥様のご心配はよく分かります。ですが、小隊長の操縦技倆はまさに神業の域に入っているのです。これは掛け値なしです。自分の見た限りですが、小隊長が敵にやられることは絶対にありません。その点はご安心なさっていて大丈夫だと思います。いつ内地に戻られるかは分かりませんが、あれほどの腕をお持ちですから、内地の部隊からも引く手あまただと思います。そう遠くない将来にこちらに転勤なさるのではないでしょうか」
 戦地の部隊や母艦からも引く手あまただろうが、もちろん言わない。
「さようですか‥‥‥」
「はい。なにか情報が分かればすぐにお知らせしますよ。私はいま横須賀航空隊というところにおりまして、そのような情報が入りやすいのです」
「ああ、さようでしたか。それは大変心強く思います。もし何かありましたら是非よろしくお願いします。何しろさっぱり情況が分かりませんので‥‥‥」
 結局彼女は手紙も書かずじまいだったのだ。
「権藤さん、本日はまことにありがとうございました。またいつでもお寄りください。是非是非‥‥‥」
 長くなりそうなので、博一が涼子を遮るように言った。
 この後、彼は四ツ谷駅まで送ると申し出たが、権藤は新宿まで歩くからと断った。二人は少し広い道まで送り、そこから権藤が大通りに出るまで見送った。

 権藤は一人になりたかった。
 冬の夜空は澄み切っており、氷のように冷たい風が吹いていたが、頭の中はカッカしていた。実のところ、夏子の姿が目に焼き付いて離れないのだ。彼は小学生のときに天女のような先生に救われたが、夏子は天女そのものだった。
 歩きながら彼は思い出した。そういえば前進基地にいたときに市が話していた。
「家内には夏ちゃんて妹がいてね、女学校の頃にもてすぎて困ったんだ」
「へえ、世の中にはそんなこともあるんですねえ。ずいぶんと贅沢な悩みですね」
 権藤は少し冗談めかして合いの手を入れた。
 しかし‥‥‥
「いや贅沢ではなくて、彼女、ほんとに深刻に悩んだみたいだよ。一時は硫酸をかぶろうと思ったぐらいなんだ」
「な、なんですって!?」
 そのときはえらく驚いたものだが‥‥‥
(それだ!)
 今さっき見た夏子の様子を思い出し、急につながった。
 確かにそこらではお目にかかれないような、ずば抜けた美貌だった。だが夏子が素顔だったのは玄関先だけで、すぐに「私、ひどい近眼でちっとも見えませんの」などといって度の強い眼鏡を架けてきた。その眼鏡は見るからに不細工で、髪も乱れており怪訝に思った。
(つまり、あれはわざとだったのだ。だが、俺は彼女の素顔を見てしまった‥‥‥)
 美しすぎて苦しみぬいた女‥‥‥これは忘れられそうにない。
 夏子のことは何も聞かなかったが、権藤はもっと知りたいと思った。

 それにしても‥‥‥
 孝子の若い頃はさぞやと思われるし、涼子も美しいだけでなく温かさがあった。権藤は市が「必ず生き残る」と語っていた理由が少し納得できた。彼は、二人が早く再会できるよう心から祈った。
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