さらなる捩れ 4

文字数 2,245文字

 家はそれなりの商家だったらしいが、父の代で身代をつぶした。母は家を捨て、父は放蕩の揚句に次々と女を引き入れ、自堕落な生活をしていた。邪魔になった彼は、小学校に上がる前から奉公に出され、低学年の時分はそこから小学校に通った。
 なまじ利発だったために、先輩からさんざん苛められた。番頭からは身に覚えの無い盗みの罪を着せられ、しょっちゅう折檻された(店の品をくすねていたのはその番頭だった)。あるとき彼は番頭を棒で殴って昏倒させ、他の者にも仕返しした。その結果、とうとう(たな)を追放された。それが小学校三年のときであった。
 家に戻ると、父親はますます酒に溺れており、顔が変るほど殴られた。その後も継母に苛め抜かれた。こうして彼は、幼い頃から人間の暗黒面を嫌というほど見せつけられた。

 そんな彼が救いにしたのは、三、四年を受け持った担任の先生だった。彼によると天女(てんにょ)のように美しい先生で、放課後に彼が家に帰らなくて良いように、説話をしたり課外授業をしてくれた。これには、似たような辛い境遇にいる他の子供たちも加わった。大勢の子供が彼女を慕い、権藤が本当に心を開けるのもこの先生だけだった。
 彼女は五、六年では担任を外れたが、何度も家に来て、優等な彼が中学に行けるよう切々と父親を説得した。その結果、父親は彼を手放すことに決め、彼は六年の途中で新潟の親戚に預けられた。彼は転校先で中学を受験し、合格した。
 しかし、新潟も彼にとって天国ではなかった。養父母からは毎日あれこれ文句をつけられ、早朝から重労働をさせられた。労働は厭わないが、彼はねちねちした毎日の小言や嫌味に耐えられなくなった。結局中学を三年で中退し、海軍少年航空兵を志願することにした。
 便利な働き手を失う養父母は大反対したが、埼玉の父親は喜んでこれに同意した。厄介払いした上に、仕送りを受けられると胸算用したのだ。
 権藤は試験に合格し、昭和八年に十六歳で海軍に入隊した。市より一つ下だったが、海軍の軍歴は長かった。

 それまで彼はこんな話を他人にしたことはない。だが、なぜか市には話したくなるのだ。二人が海岸で想い出話に浸っていると、爆音が聞えてきた。
「今頃、隊長が戻ったんですかね。もうかなり暗いじゃないですか」
 空にはまだ残照があるが、地面近くは暗い。
「うん。滑走路はどうだろうね」
 しかも新しい列機を連れているという(そう伝わっていた)。二人はどちらともなく立ち上がり、ぶらぶらと戻り始めた。
 滑走路の端についたので眺めていると、夕闇の中を早くも一機が着陸してきた。地面の状態はよく分からないが夜設の灯りがついている。その機体はややつんのめり気味に接地し、何度もバウンドした挙句、いわゆる回された状態で横向きになり、さらに逆立ちして停止した。次の瞬間、機体はがっちゃんと大きな音を立てて尾部を落した。プロペラはもちろん、尾部も破損した。
「あちゃー、ひでぇな。誰だあれは」
 権藤が叫んだ。
 暗闇の中で機体に大勢の人間が群がり、搭乗員を担ぎ出している。
「危ない!」
 市が叫んだ。まだ機体をどけないうちに二機目と三機目が着陸してきたのだ。おそらく前の機の状態がよく見えていないのだろう。止めようとして二人は大声で叫びながら走ったが、その目の前で二機目が一機目の機体にもろに突っ込んだ。ガチャーっと凄まじい金属の破壊音がし、機体に取りついていた人々が吹っ飛んだ。
 三機目は事故に気づいて高度を上げようとしたが、すでに機速が落ちており残骸に車輪を引っかけた。機体はガシャーンと大音響を立てて地面に激突し、さらに爆発音とともに炎上した。その炎は後ろの二機に走り、引火。結局それらも炎上・爆発した。これらは文章で書くと長いが、一分も経たないうちの出来事であった。

 この基地には消火用の水もポンプも充分にはなく、機体が自然鎮火するまで砂でも掛ける他はなかった。搭乗員は一機目の操縦者が助かっただけで、それが九ノ泉であった。
 悪運に恵まれた彼は、額を割られて六針縫ったが体は打撲程度で済んだ。残りの二名は空輸に来ただけの一飛兵(一等飛行兵)で、夜間飛行の経験がなかった。この二名と作業隊員二名が死亡し、他に整備員を含めて四名が負傷した。九ノ泉の着陸失敗が原因で起こった大事故であった。

 夜がふけると大方の状況が判明した。九ノ泉は市と権藤を私室に呼びつけ、寝台に坐ったままで叱責した。
「貴様らはなぜ『着陸可能』などとデタラメな報告をしたのだ。そのおかげで、こんな事故が起こったではないか。その上、わしまでが死にかかったぞ。この始末、どうつけるのだ。もう謹慎どころでは済まんぞ」
「はあ、しかし雨のことは既報の通りですし、本日われわれは二人とも何の問題もなく着陸しました。その後雨は止んでおり、滑走路の状態は改善しております。私はその事実を報告いたしました」
 市が淡々と述べると、九ノ泉は気色ばんだ。
「なんだと、貴様! 事故の責任を転嫁する気か? 自分が何を言っているか分かっておるのか!」
 しかし二人とも分かりようがない。分かっているのは、夕闇の中でいきなり着陸を強行した九ノ泉の判断ミスと、着陸に失敗した技倆の拙劣である。
(隊長の事故はぬかるみが原因ではないだろうし、あの失敗がなければ他の者が死ぬことはなかったはずだ)
 さすがの市もそれは言えず、二人は黙っていた。
「まあよい。二人とも首を洗って待っておれ。いずれ本隊から沙汰があるだろう。以上だ。下がれ」
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