さらなる捩れ 3

文字数 2,088文字

 横に来た権藤がしきりに首を横に振る。積乱雲に突っ込むのは自殺行為である。市は南方戦線に来たばかりで、天候の恐ろしさを本当には知らない。ここは権藤に従って引き返すことにしたが、驚いたことに戻ってみると前進基地の辺りまですっぽり雲の中である。下は雷雨と嵐に見舞われているはずだ。さすがの二人もこれでは着陸できず、ブカ基地に向かった。

 ブカは雲が切れており、降りてみると機動部隊(『翔鶴』『瑞鶴』)の戦闘機隊が進出していた。顔を知る士官もいるにはいたが、親し気に語り合う雰囲気ではない。先方から見ると、市は特務少尉に近いような位置づけなのかもしれない。むしろ話しかけてきたのは権藤の同期の一飛曹や飛曹長、あるいは『赤城』で市の二番機を務めた村本という二飛曹だった。
「分隊士、ご無沙汰しております」
「おお村本じゃないか。元気そうだね。どっちに乗ってるの?」
「『瑞鶴』です」
「そうか、それは頼もしいな。やられないように頑張るのだぞ」
「はい」
 しかし、残念なことに彼は次の海戦で戦死してしまう‥‥‥

 翌日、市と権藤は母艦戦闘機隊と共にガダルカナル島攻撃に参加した。
 二人に三番機は付かなかった。
 ブカの戦闘機隊は上空でラバウルからの戦爆連合と合流し、大編隊でガダルカナル島に向かった。だが、この日も天候不良のために攻撃は中止になった。帰途に市たちは分離し、前進基地のぬかるみの滑走路に着陸した。
 前進基地は不時着場に毛が生えた程度の施設である。滑走路が狭く短いこと、駐機場所がないこと、雨ですぐにぬかるみになることなどから、母艦機の作戦基地にはなり得なかった。

 二人が帰着してみると、隊長はまだ不在だ。そのためか、基地にはなんとなくのんびりした雰囲気が漂っていた。さっそく整備場に入り浸り、富田たちと母艦戦闘機隊の話に花が咲く。
「...しかし、隊長はまた『勝手な作戦をしやがって』って怒ってるんじゃないですかね」
「いや、われわれが母艦の連中と飛んだのも本隊からの命令だからね。そんな(叱責される)筋合いはないと思う」
「はあ、しかしあの隊長は何を言うか分かりませんからね」
「ありゃ? 俺だけかと思ったら、飛曹長でも隊長の言動は予測がつかないの? ‥‥‥しかし遅いね。今日も向こう(ラバウル)に泊りなのかな?」
「はあ、それなら大歓迎ですが...」
 夕方近くなって二人は整備を切り上げ、ドラム缶の風呂を浴びるとまたいつもの海岸に向かった。いつの間にかモヤモヤも晴れ、権藤はすがすがしい気分になっていた。
 市は風呂上がりのためか、つやつやと肌が光っている。権藤は彼の背中について歩く間、自然と微笑がこぼれるのを抑えられなかった。

 彼自身は身長一八〇センチ、体重七五キロ、頭脳明晰にしてスポーツ万能の偉丈夫である。その彼から見ると、市の後姿は縦と横がまるで同じぐらいある。
 権藤は、子供時代を埼玉県のある大きな宿場町で過ごしたが、小学四、五年ぐらいから体がぐんぐん大きくなった。喧嘩も強く、六年になるといわゆるガキ大将を張るようになった。頭も回る彼は、またたく間に他校の悪童グループを支配下に収め、ついに中山道をはさむ町の西側を統一するに至った。一方、町の東側には別なガキ大将が君臨していた。双方が小競り合いの火花を散らしていたが、いよいよ頂上決戦というときに、彼は新潟県に転居することになった。それで不本意ながら大将を“引退”したのである(そのため、結局東のガキ大将が

を統一した)。
 彼は新潟で中学に進学したが、そこでも喧嘩に明け暮れた。中退して海軍に入ってからも一度も後れを取ったことはなく、同期からは喧嘩権藤の異名を奉られていた。
 その彼が市の後姿を見ると、(この人には(かな)わんな‥‥‥)という気持ちになるのである。市は彼よりも頭一つ背は低いが、体重は九〇キロ以上あるといわれ、がっちりした骨格と隆々たる筋肉をもっていた。
(歩く姿はまるで大仏さまが歩いてるみたいだけどな‥‥‥)
 それでいて走る姿は重戦車の突進である。
(聞けば満洲で拳法なるものを皆伝したとか‥‥‥あの体から繰り出されるパンチや蹴りはさぞ重いだろう。以前に横須賀で少尉たちとやりあったとき、相手は十人掛かりの上に刀まで抜いた奴がいたという。それは小隊長の体術が如何にもの凄いかを示しているのだ‥‥‥)
 おそらくそのときの話が元だが、普通の人間ならまず一撃で動けなくなると噂されていた。
 パンチでは適わないとしても、権藤は柔道にもいささかの心得があった。だが、このどっしりした体を投げるのはなかなか困難だと思う。
(ふうむ、どうしたら崩せるか。‥‥‥いや、やはり投げるのは無理だ。多分その前に〔関節を〕()められてしまう‥‥‥)
 あれこれ攻略法を考えるが、どれも駄目そうだ。彼は内心で脱帽した。
 空戦はともかく、喧嘩で勝てそうにない相手が目の前にいるのは、人生で初めての経験である。それはある意味新鮮な驚きだったが、市のユーモラスな外見と相まって、なんとも暖かな可笑しみを誘うのであった。

 ところで、権藤の子供時代は悲惨だった。
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