終章:空と海 1

文字数 1,836文字

 市たちの朝の戦闘から少したつと、泊地に集結していた“増援部隊”の駆逐艦が出撃した。幸い空襲の被害はなく、行き先はもちろんガダルカナル島である。言うまでもなくこれが第一次の撤収作戦で、見事に成功した。翌日に約五千名の将兵が帰着した。
 その二日後に第二次の撤収作戦が行われた。これも成功し、約四千名が翌日帰着した。
 だが勝男はまだ島に残っていた。

 第三次、つまり最後の撤収作戦は、そのさらに二日後に開始された。
 駆逐艦十八隻が〇九一〇に予定通り泊地を出撃した。

——その日の夜である。
 カミンボの浜辺には、大発がずらっと並んでいた。
 勝男も本多を抱え、並んで待った。苦痛も怒りもすべて去り、もはや無の境地に近い。
 ザー、ザー、と規則的な波の音。しわぶき一つない闇だ。
「移乗用意」‥‥‥、「乗船!」
 号令で大発が押し出され、掛の誘導で兵たちは次々と舟艇に移乗した。前回は乱れがあったが、今回はみな整然としている。乗り込んだ舟艇でも全員が立ったままだ。しゃべる者はいない。
 と、突如、沖の方でブワッと何かが炸裂した。
「おお」っと、声にならないどよめき。
 闇に慣れた目に閃光が突き刺さる。続いて左右に爆発音。ドンドンドンドンと機銃の音。オレンジや白の曳光弾が何条か交錯する。
(きれいだな‥‥‥)
 勝男は他人事のように思った。なにやらこの世でないような幻想的な気分だ。
 再びバリバリバリと機銃がうなり、グワーン、ガーン、ブワンと連続的な爆発。そしていきなり音が消え、闇が戻った。どうやら敵の魚雷艇は排除されたようだ。
(ほ‥‥‥‥‥‥)
 兵たちは黙ったまま待った。

——気がつくと沖合で青い光がチカチカしている。
「合図だ!」
「エンジン始動!」
 押し殺したような声で号令が掛かる。
 トントントン‥‥‥トトトトトトトト‥‥‥そこかしこで、場違いにのどかなエンジン音が響いた。
 兵たちを乗せた舟艇は一斉に青白い光に向かって動き出す。
 点滅するその光は、極楽への道しるべなのか‥‥‥

 駆逐艦の舷側で勝男は難儀した。
 本多は意識がない。その腕を首に回し、体を抱え、右肩には軽機をかついでいる。この何日かで体力は大分回復したはずだが、どうしても縄梯子を登れないのだ。しがみつくのが精一杯で、とうとう最後に取り残された。
「どうした、早くしろ!」
 上から水兵たちが手を伸ばすが届かない。
「そいつは死んでるだろ? 海に落とせ!」
「馬鹿野郎、できるか!」
 しかし勝男も限界で、しがみつくのも困難になった。
 もう駄目かと思ったとき、大柄な男がひょいと降りてきた。
「そいつを貸せよ」
 大男は本多を抱えると軽々と登っていく。勝男は死力を振り絞り、二段ほど上がった。そこでようやく水兵の手が届き、引っ張り上げてもらった。その後、「残った者はいないか!」と積み残しがないか確認され、縄梯子が回収された。と同時に駆逐艦は動き出す。

 陸兵は甲板下に入るように指示されたが、勝男はそのまま後甲板に居残った。構造物(彼は知らなかったが、爆雷投射機)に寄りかかり、呆然とこれまでの半年間を思い浮かべる。闇の中を駆逐艦は猛烈なスピードで走行し、艦尾には白い泡が盛り上がる。ゴーっという音と振動がすごい。
 ともかく昨日までの生き地獄とはまるで別世界だ。なにやら自分が自分でない感覚に捉われた。
 彼はしばらく風に打たれていた。

(そうだ、本多はどうなったかな?)
 医務室に見に行こうと立ち上がった。と、暗闇の向うから三人組が来る。二人は毛布にくるんだ人間のようなものを運んでいる。見ていると陸軍の死者を海に投棄するようだ。
 勝男ははっと気づいた。
「おい、待ってくれ‥‥‥そいつを下ろせ」
 水兵は無言で勝男を懐中電灯で照らし、軍曹と分かると毛布を下ろして敬礼した。
 勝男は懐中電灯を奪い取った。毛布を開けて顔を照らすとやはり本多だ。ぴくりとも動かず、むろん、脈も呼吸もない。
「あんたら、これは何のまねだ?」
「‥‥‥」
 彼は本多の頬をなでた。
「本多‥‥‥お前、どうしたんだ。せっかく船に乗ったのに死んだのか。‥‥‥なんで死ぬんだよ‥‥‥馬鹿野郎‥‥‥馬鹿野郎」
 自然と涙がこぼれ落ちる。考えてみれば、これまで誰が死んでも泣くことはなかった。島を離れて人間らしさが戻ったということか。
 この間に、水兵の一人が誰かを呼びにいき、さっき本多を抱えて上がった大男が出てきた。階級は二つ上の兵曹長だ。
 そいつが尋ねた。
「この男はあんたの戦友なのか?」
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