師の死 3

文字数 2,300文字

 その次は会社の佐竹だ。彼は濠グループにおける飛行機整備部門の長で、機体の整備では右に出る者のない腕と経験を持っていた。市の才能を愛し、市に心酔していた。最後は本人のたっての願いにより、荒木、新井、米田による編隊宙返りを病院の屋上で鑑賞した。その最中に、市の腕の中で永久(とわ)の眠りについた。彼は肝臓のがんだった。これも病気が分かってから、ひと時も良くなることはなかった。その苦しみは周囲がいたたまれなくなるほどだったが、本人は絶対に言わなかった。
 ちなみに、佐竹の死によって、見えない部分で機体整備のレベルが低下していた恐れはある。思わぬところに事故の芽が出ていたのかもしれない。

 三人の病気は、どれも当時の医学では歯が立たなかった。人間いつか死ぬとはいえ、医学・医療はあまりに無力だった。市はなまじ医学の道に進みかけていたため、一層その思いがつのった。
 そして今回の隆政である。彼は脳卒中(血栓による脳梗塞)だったが、病院ではただ寝かされているだけと言ってよかった。そして市たちの到着を待つことなく、次女の家族に看取られながらこの世を去った。
 市は思った。
「おそらく、医学で病気を治せるようになるには、まだまだ何十年もの時間が必要なのだ。そこに飛び込むよりは、自分が今パイロットに専念した方が才能も生かせ、世の中にも貢献できる。さらに、軍のパイロットになれば国に直接貢献できる」
 すでに彼はパイロットとして相当な域に達しており、こう考えるのも無理はない。これを人にも言った。
 もちろん若気の至りもあったろう。だが、市政を始め、誰も翻意させられなかった。

 さて、それまで付き合いのあったのは圧倒的に陸軍である。しかし陸軍にはすっかり裏切られた。
 というのは、事故について濠グループにきつい咎めがあり、そのうえ派遣されていた陸軍の人員が全て引きあげられた。さらには米田までが再召集を受けることになった。これが四月中のことで、その後、資金や資材の援助も打ち切られた。夏には定期路線も国策会社(陸軍が背後に付いている)に接収され、濠グループ飛行機部門は事実上の消滅を余儀なくされた。
 市は、それまで陸軍航空隊に感じていた親近感や信頼感が吹き飛ぶのを感じていた。
 その一方で海軍のある筋から誘いが掛かった。満洲事変以来、とある高位の人物から折に触れて便りがあり、関係が続いていたのだ。結局それが決め手となって市は海軍の航空予備学生を選んだ。
 この年の日本学生航空連盟・海洋部部員の採用試験(海軍航空予備学生へのコース)は四月から五月にかけて行われていた。すでに一等飛行機操縦士の資格を持っている市は、この枠で特別に採用された。
 彼は、子供の頃から隆政に「軍人にはなるな」と言われ続けていた。しかし彼が空を志向するかぎり、いつも軍は身近にあった。隆政に言われれば言われるほど、なぜか軍に近づいていった。そして、その対象は陸軍だったが、彼は最後の土壇場で海軍に転んだのである。

 市はこれを、兄のように親しくしていた米田にも相談せずに決めてしまった。米田は内心とまどったと思われるが、「機長どのが選ばれた道に敬意を表します」と祝福した。
 しかし、その米田も昭和十四年(一九三九)の夏にノモンハンの空に散った。
(米田さん‥‥‥)
 彼は荒木が亡くなったとき、すでに荒木の長女・恵子と婚約していた。市が予備学生として内地に戻って半年後、二人は奉天で祝言を挙げた。だが彼女は、わずか三年で未亡人になってしまったわけだ。子供が生まれたばかりだったが‥‥‥
 市は大分たってから市政の手紙で米田の戦死を知った。そのとき彼は大陸で九六戦を駆って戦っていた。広大な大地を飛びながら、米田を偲んだものである。

‥‥‥カンテラの灯りもまたたいている。
「ふーっ」
 市はこの一連のできごとを思い浮かべ、ため息をついた。
 時の流れは早いのか遅いのか。
「涼ちゃん‥‥‥、荒木さんの息子さんが陸軍のパイロットになったんだって。いつか一緒に内地で会えればいいね」
 彼は虚空に話し掛けた。
 もちろん彼女はここにはいない。しかしどんなに遠くにいようとも、市にとって彼女はいつも傍にいる。だからついこうして口に出す。
 いってみれば彼女は空気のような存在かもしれない。見えなくても分かる、当たり前に傍にいる、そんな存在である。だが、現実には彼女とは遠く離れていることが多かった。幼い日に“婚約”して以来、満洲で再会したのは十年ぶりだった。
 そのときに市は誓った。
「ぼくは涼ちゃんのもの」
 離れていてもその思いは変わらない。だが、その誓いを守るには、彼は生きて戻らねばならなかった。涼子が捨てないかぎり、彼は涼子のものなのだ。そして彼はどんなことがあっても戻れると思っていた。陸上部隊や軍艦や爆撃機では無理でも、戦闘機ならばそれが可能なのである。九十九機がやられても彼は生きて戻る。それが「空戦名人」の信念であった。
 この戦闘機パイロットを選んだのも、ある意味必然だったのだろう。もちろん彼は自分の意思でこの道に進んだが、それは見えない何か大きなものに導かれた結果である気もした。
 そして敵機も海も味方撃ちも病気も、彼の命を奪えなかった。明日からの最前線基地も多分そうだろう。大丈夫だ。何かが彼を守ってくれる。それは涼子かもしれないし、神かもしれない。
「何があろうと、ぼくは最後まで生き残るよ」
 彼は虚空の涼子に確約した。
 この意味では、彼は伯父の言いつけに背いていなかった。なぜなら隆政の「軍人になるな」は、「他人の都合で命を捨てるな」が本当の意味だったからだ。
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