『翔鶴』応援 1

文字数 1,936文字

 ところで、日付は二日ほど戻るが、前進基地では九ノ泉がラバウルの本隊に電信でねじ込んでいた。ガダルカナル島上空における市たちの“活躍”を聞き付け、自分の指揮下に入るべきと主張したのだ。彼にすれば予備少尉ふぜいがブカ基地で独自に作戦し、あたかも分遣隊長のような振舞いをするのは許せないわけである。
 要するにいつもの難癖だが、確かに市たちの立場は宙ぶらりんであった。温和な司令は、これを突っぱねなかった。結局、市たちは名目的に九ノ泉の指揮下に入ることになった。ただし、これはあくまで名目上であり、副長が「ブカ基地に進出した搭乗員(市たち)は本隊の作戦指示に従って行動すべし」と改めて釘を刺した。
 だが九ノ泉としては、それで十分に帳尻は合っていた。自分の面子が立つだけでなく、何もしなくても市たちの撃墜戦果が自分の功績になるのだから。
 ところが幸か不幸か、その後、特に陸軍の総攻撃が失敗した後は天候不良が続き、ガダルカナル攻撃は途中中止が多かった。従って交戦もなかった。
 そんな最中に、市はラバウルから呼び出しを受けた。

 零戦で一飛びし、指揮所に顔を出すと副長と飛行長が待っていた。
「濠少尉、よく来てくれた。突然で済まんが、少しの間『翔鶴』に行ってほしいのだが」
 挨拶もそこそこに飛行長が切り出した。
「は? 『翔鶴』ですか? 一体どういうことでしょうか?」
 かなり突拍子もない命令と言えなくもない。
「うむ。機動部隊で搭乗員が不足しているのは君も知っておるだろう? 陸軍は次に師団をガダルカナル島に送るつもりだが、輸送作戦に伴って機動部隊同士の決戦が起こる気運が高まっておる。しかしながら彼らは搭乗員不足で困っているわけだ。先日の損失(ブカ基地に派遣されたときの)もまだ埋まっておらん。われわれも協力したいのはやまやまだが、何せ母艦の発着ができる搭乗員となると、当隊にもなかなかおらんのが現状だ。それで、以前『赤城』に乗っていた貴官に白羽の矢が立ったわけだ。どうだ、少しの間母艦に応援に行ってくれんか。もちろんこれは転勤ではなく、一時的な派遣だ。おそらくその決戦を戦うまでの一航海のみになるが」
「はあ‥‥‥」
「ブカ島の方は別な指揮官を送るから心配するな」
「はあ‥‥‥では行くのは私一人でしょうか?」
「そうだ」
「‥‥‥」
「おい、イカンのか?」
 副長が問うた。
「いえ、そのようなことは‥‥‥私は行けと言われれば如何なるところにも参ります」
「そうか、それは頼もしいな」
「はあ」
「先方も喜ぶぞ。是非よろしく頼む」
「‥‥‥承知いたしました」

 もちろん市に断る選択肢はない。彼は感情で物事に悩むことはないが、空母にはあまりよい印象を持っていなかった。
 というのは、そもそも彼は海があまり好きではない。それは水泳が得意でないからだ。彼の運動能力は並外れていたが、唯一の例外が水泳だった。骨太で脂肪の少ない彼の体は、沈みが大きいのだ。海水ではまだマシだが、腕力にまかせて体を浮かせ、進むのが彼の水泳である。つまるところ、彼は空気には乗れるが水には乗れなかった。先日の遭難で命が助かったのは木箱のおかげであり、むしろ奇跡の部類だった。当然、軍艦も広い海原で活動するため、どちらかと言えば得手ではないわけだ。
 次に彼は狭い場所が好みではなかった。満洲の広大な大地で少青年期を過ごした彼にとって、艦内はあまりに違う環境である。閉所恐怖まではいかないが、特に外が見えない狭い部屋は嫌だった。格納庫は広いのでまだマシだが、気が付けば発着甲板など開放的な場所に出ていることが多かった。
 また軍艦は特有な決まりやしきたりが多く、彼にはわずらわしい。もちろん人間関係も狭い。これは彼が最も苦手な分野である。彼は忖度ができず、得てして上官を立腹させる。特に海兵出の士官の中には、彼のぬぼっとした態度にカチンと来る者が多いようだ。また、その昔彼が空でなぎ倒した士官たちは、今や航空隊の幹部になりつつある‥‥‥
 とはいえ、飛行機にさえ乗ればどこでも存分に腕を振えるのが市である。彼はさっそく陸攻の連絡便でトラック基地に移動した。それが九月も大分押し詰まったころだった。

 機動部隊は同地で補給・整備をしており、飛行機隊は陸上基地で訓練にいそしんでいた。
 彼は飛行長にあいさつした。ちなみに初対面である。市のことは書類上でしか知らないはずだ。
「濠少尉、参りました」
「おお、よく来てくれた。委細は聞いてきたと思うが、とにかくこちらは搭乗員の補充が追い付かんのだ。これでは次の作戦に差し支えてしまうが、かといって基地の方にもすぐに母艦で働ける者もなかなかおらんしな。君の様な存在は非常に貴重なのだ。是非よろしく頼むぞ」
「はい」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み