中央凱旋

文字数 2,724文字

 さて、市がトラック基地に戻ったのは十月末である。約一か月を母艦の応援で過ごしたことになるが、その間に前線ではいろいろな出来事が起こっていた。

 南太平洋海戦は陸軍の総攻撃に策応した作戦の一環だったが、その総攻撃自体はまたもや失敗に終わった。
 直接の原因は師団単位で前回と同じ迂回戦術を取ったことである。火砲も弾薬もジャングル内を運ぶのは困難であり、敵の鉄条網陣地を攻略するための火力が足りなかった。逆に、敵からは無尽蔵ともいうべき銃砲火が浴びせられた。
 迂回戦術を取らざるを得なかったのは、制空権がないためだった。制空権がなくては歩兵の前進も砲兵の活動も困難である。もちろん、肝腎な火力自体(特に弾の数)も足りなかった。揚陸後に敵の攻撃で灰燼に帰してしまったためだ。従って当初構想していた正面攻撃など思いもよらなかった。だが、ジャングルにおける迂回作戦はさらに困難だったのだ。
 日本軍は飛行場を奪還したいが、その飛行場がある故に奪還できないという、まったくの堂々巡りに陥っていた。
 この閉塞状況を打破するには、ガダルカナル島基地の敵航空兵力を壊滅させるしかない。しかし、陸攻ではるばる爆弾をばらまきに行くだけでは不可能だった。市の言う“賽の河原の石積み”である。また戦艦の夜間艦砲射撃も十分ではなかった。むしろ機動部隊を用いての白昼波状攻撃、それに引き続く白昼堂々の艦砲射撃(‥‥‥要するに米軍が行うような正面作戦)が最も有効と思われるが、海軍にそれができる戦力はなかった。

 十月中旬に前進基地は作戦基地として概成し、新たな航空隊が進出した。これに先立って、九ノ泉には内地転勤の知らせがもたらされている。
(ワッハッハ。俺もついに内地凱旋か。それも多分中央だ。ざまを見ろ)
 半ば野望が達成され、彼は内心有頂天でラバウルに現れた。このときにわざわざ連絡便が派遣されたことも彼の虚栄心を満足させた(それは彼に操縦させないための配慮だったが‥‥‥)。
 さっそく指揮所に入り、副長から話を聞いた。ちなみに、彼は上官の前で増長するようなヘマはしない。その辺はよく心得ており、真摯な男そのものだ。
「副長、転勤の内示ということですが‥‥‥」
「ふむ。君は東京に戻り、その頭脳をイカンなく発揮してくれたまえ」
「は、さようですか。それはまことに光栄に存じます。して、転勤先はいずれでしょうか?」
「海軍省だ」
「は?」
 彼の野心は参謀勤務にある。つまり軍令部が彼の望みなのだ。もちろん海軍大学にも行きたい(参謀になる資格として必ずしも必要ではなかったが)。しかし内示された行先は、どうやら参謀への道ではなさそうだった。
 いささか不満に感じたが、彼は頭の切り換えも早い。
(‥‥‥なるほど、海軍省ならば軍政に関わるということだな。つまり、わしの意向で軍の方向を左右できるということだ。それはそれで面白いかもしれん‥‥‥)
 これも妄想に過ぎなかったが、彼は腹の中でニヤリとし、神妙な顔つきで言った。
「ありがとうございます。謹んでお受けいたします」
「向こうでの活躍を期待する」
「は!」
(そうと決まればラバウルなどに用はないわ‥‥‥)
 引継ぎを終えると、彼の心は早くも北に飛んだ。航空隊も彼を必要としていなかった。

  * * *

 十月二十日、九ノ泉は東京・霞が関の海軍省に現れた。すでに新しい所属は人事局と聞いている。これまた当てが外れたが、早速局長の訓示を受けた。
「...以上だ。要するに君の仕事は人事を通じて海軍を強化することだ。戦地での経験を活かし、大いに張り切ってくれたまえ」
「かしこまりました。全身全霊をもって任務に邁進いたします」
 机仕事や演説は大の得意である。
 しかしいざ始めてみると、彼の業務は課員の作成する人事関連書類(任官、転勤、叙勲その他)を機械的にまとめるだけのルーチンワークだった。扱うのは主に航空隊関連である。
 一方で、彼が権力を及ぼせる部分も確かにあった。
 市の人事書類を目ざとく見つけたのだ。それによると、市の進級差し止めを解除すべく上申が成されていた。九ノ泉はさっそく課長に掛け合った。
「...実を言うと、この者は一時期私の指揮下におりましたが、抗命を繰り返し、挙句重大事故を招く原因を作るなど、懲罰では足りず軍法会議を検討するほど不逞な予備士官でありました。この者に対する(進級差し止め)措置の解除など、海軍の秩序に亀裂を生じさせかねない、不適当な計らいであると思量いたします...」
「ふうむ、書類には貴官の言うような記載はないが(実は副長たちの意向で謹慎もなかったことになっていた)‥‥‥。それどころか考課表を見ると、撃墜は共同で八〇機を超えており、軍功抜群との特記もあるではないか。この点についてはどう評価するのだ?」
「いや、それはこの者が指揮に従わず、勝手な行動を取ってのことでして、決して言葉通りに受け取るべきではないものと...」

 この件は会議に諮られた。
 九ノ泉があまりに強硬に反対するため「貴殿、私怨でもあるのか」などと疑う上官もいたが、結局措置の解除は見送られた。
 かくて、市は知らぬまに運命を(もてあそ)ばれた。
 しかもそれだけでなく、内地帰還のチャンスまでも奪われた。というのは所属する航空隊が十一月中に内地に引き上げることになっており、そのままならば市も内地に戻るはずだった。だが彼は新たにラバウルに進出する航空隊に転勤となった。それも九ノ泉の差し金だった。彼は、戦死するまで市を前線に置いてやろうと画策したのだ。タイミングがギリギリだったが、際どく書類が間に合った。
(予備少尉、貴様は前線で戦死せい。それがわしを(おとし)めた報いというものだ。大いに名誉なことではないか。泣いてよろこぶが良い...)

 一方、これとは別に、市は『翔鶴』で作戦中に飛行長から「是非うち(翔鶴飛行機隊)に来てくれ」と誘われていた。生返事で応じたが、飛行長は本気だった。彼は横須賀に帰港すると市の獲得に動いたが、こちらも九ノ泉に妨害されていた。書類は握りつぶされ、問い合わせてもさっぱり要領を得ないのだ。
 九ノ泉としては、市はソロモンの最前線に居続けねばならなかった。ちなみに、このときに勘の良い部下に気づかれそうになったが、なんとか取り繕って切り抜けた。

 ところで市とは関係ないが、昭和十七年十一月一日付で様々な規定が改正され、その一つとして下士官兵搭乗員の呼称が変更になった。一飛曹、二飛曹、三飛曹がそれぞれ上飛曹(上等飛行兵曹)、一飛曹、二飛曹となり、一飛兵、二飛兵、三飛兵、四飛兵がそれぞれ飛兵長(または飛長)、上飛兵(または上飛)、一飛兵、二飛兵となった。
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