師の死 2

文字数 2,245文字

 隆政は大連にいたため、奉天の市たちは直ぐに駆け付けることができなかった。彼は市の伯父であり、育ての親であり、飛行学校その他を運営する濠グループの会長だった。彼は事故の知らせを受けてその場で倒れ、病院に担ぎ込まれたのだ。一度かすかに意識が戻り「市は?」と一言尋ねたが、また昏睡に陥り、そのまま不帰の客となった。彼は最後に市のことを気に掛けていたようだ。

 その事故はどのように起きたのか?
——飛行場上空で、二機の複座練習機を満人練習生が操縦していた。後席にはそれぞれ教官の荒木と新井が同乗している。スタントの訓練で二機は宙返りをした。新井の機が前で、荒木の機が追躡(ついじょう)する形だ。だが、宙返りの頂点を過ぎたあたりで新井の機は発動機が停止した。なんとか惰性で降り、姿勢を直すことはできたが、もたついているところに後ろから荒木の機が衝突した。
 グワシャーン!
 凄まじい衝撃だった。
 このとき荒木はすぐさま操縦棹を突っ込み、下に躱せたはずだった。だが動転した満人が、力任せに操縦棹を引いてしまったのである。新井の機は左に傾いており、ちょうど新井の坐っている辺りに回転するプロペラが突っ込んだ。
 ガリガリガリガリ‥‥‥
 荒木は新井の左腕が千切れ、血が噴き出すのを見た。
 二機は絡み合ったまま落下し始めた。荒木はとっさに衝撃に備えたため、すぐに次の行動に移れた。バンドを外して立ち上がり、新井を救おうと新井の機に乗り移る。もちろんそんな離れ業は初めてだったが、上手いこと新井の席に滑り込むことができた。
「新井、しっかりしろ!」
 失血のため新井の顔色は土気色だ。
「‥‥‥荒木か‥‥‥早く逃げろ‥‥‥」
 新井はそうつぶやいたきり目を閉じ、動かなくなった。荒木は急いで新井の肩バンドを外し、後ろからがっちり抱えて引っ張り上げ、空中に飛び出した。しかしそのときには地面はすぐ下に迫っていた。
「おおーーー!」
 荒木は雄たけびをあげ、開傘索を引いた。落下傘がぶわっと持ち上がった瞬間に二人は地表に激突した。その少し前に機体は地面に激突し、燃料が火を噴いた‥‥‥。
 ちなみに満人パイロットは二人とも落下傘降下して無事だったが、あまりの惨状にいつの間にか姿を消していた。

——その一週間後である。事故の後処理も終わって市が退学届けを出したのは。
(ぼくがいればこの事故は起きなかった)
 彼はこの思いに取りつかれた。
 確かにそうかもしれない。そもそも荒木も新井も年が行き過ぎていた。市が機体を整備したら、あるいは市が片方を操縦していたら、事故はなかったかもしれない。しかし仮にそうだとしても彼が悪いわけではない。だが‥‥‥
(ぼくのせいでこの事故が起きた)
 彼の思いはこのように転化した。
 彼は医科大学学生と飛行学校教官という二足の草鞋を履いていた。履けると思っていた。が、事故に直面すると、それは調子に乗り過ぎだったとの思いが消せなくなった。
(どちらもそんなに甘い道ではない。その証拠を突きつけられたのがこの事故だ)
 自分は間違っていた。ならば一つに道を絞るべきである。この結論に達するのは当然の帰結であった。
 もう一つ、あまりに大きな代償に、自分は責任を取るべきだとの思いもあった。そのけじめが退学なのだ。
「市ちゃんの責任じゃあないよ」
 市政は終始市の思い込みを否定し、退学を思いとどまるよう説得した。だが彼は頑として聞き入れなかった。

 ではなぜパイロットでなく医学の方を捨てるのか? 
 その大きな理由は、彼が当時の医学に不信感、あるいはある種の絶望感を抱いていたことにある。実は彼が医科大学予科に在学する三年間に、身近な人が次々にこの世を去った。いずれも病気が原因だが、医学はまったくといってよいほど無力だった。
 最初は(しずか)(市の伯母・隆政の妻)である。彼女は胃がんのためにげっそりとやせ衰え、何の治療手段もなかった。がんが分かってから“たちの悪い胃潰瘍”として入院したが、ひと時も好くなることはなく、とても苦しんだ。最後は鎮痛剤と鎮静剤で眠らされ、この世を去った。市は彼女に付きそうたびに、自分の無力さがもどかしくてならなかった。
 次は綾乃(勝男の母・隆政の愛人)で、結核だった。これも何の治療手段もなく病気が進行した。彼女は最後まで勝男の将来を案じながら、大量の血を吐いて死んでいった。
 市は臨終の光景をありありと覚えている。大連のサナトリウムで、枕許には隆政と勝男、市がいた。このとき市は予科の一年、勝男は中学五年で、二月の寒い日だった。
 一番動転していたのは隆政だ。彼は静を失い、己の過去を悔いていた。しかし運命は非情にも綾乃までを奪おうとしていた。
「綾乃! 綾乃! しっかりしろ! 俺だ! 目を開けてくれ、綾乃!」
 しかし、白蝋のように血の気を失った彼女は何の反応も示さず、揺すぶられるままにぐらぐらと揺れた。隆政はわれを忘れて綾乃を抱きしめていたが、そのうちにふっと彼女から何かが抜けるのを感じた。魂が肉体を去るのか? 彼は狼狽した。
「綾乃! 死ぬな! なんで俺を置いていく! 綾乃!」
 しかしその叫びも虚しく、彼女が目をさますことは二度となかった。しばらくして、医師は彼女の体を横たえるよう促した。彼は号泣した。せめてもの慰めは、彼女が隆政の腕の中で息を引き取ったことである。そのそばで勝男はうつむき、じっと涙をこらえていた。これにはさすがの市も胸に痛みを感じた。人間の悲しみとはこういうことだったのかと理解した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み