『翔鶴』応援 3(市の哲学)

文字数 2,176文字

 あるとき特務士官に誘われた。行ってみると准士官やベテラン下士官など十名以上の搭乗員が集まっている。戦闘機以外の者もいた。市にとっては士官よりも彼らの方が付き合いやすい。ちなみにこの頃、予備士官の搭乗員はまだ空母に搭乗していなかった。
「ガダルカナル島での空戦について聞かせてもらえませんか」
「はい、喜んで」
 市は、ガダルカナル島航空戦の鍔迫り合いが非常に緊迫していることを説明した。また、遠路はるばる、待ち伏せの中に飛び込んでいく現状について述べた。そして、いつもの持論を展開した。
「...そのような状況では、基地航空隊員は粘り強く戦うことが最も重要なのです。なぜなら、われわれは際限のない消耗戦を戦っているからです。故に如何にたくさんの敵を落すかが肝要であり、それを持続的に達成することが戦争の勝利につながるのです。つまり、空戦では生き残ることが大切で...」
 母艦搭乗員は決戦志向であり、消耗戦を戦っている自覚はない。そのあたり、根本的に非常な乖離があった。しかし彼らは意外な論旨に驚きながらもうなずいている。なにしろ空戦の達人が言うことなので、重いのだ。
 だが、相手が真剣に聞いているとはいえ、市も「過早な自爆は避けるべき」とは話せなかった。そんなことを言えば誤解も含めてたちどころに広まってしまい、市だけでなく彼らにもどんな災いが及ぶか分からない。そこはやはり他人行儀にならざるを得なかった。
 なぜなら、「武人の心」は、士官に限らず下士官兵の末端にいたるまで、広く深く浸透していたからだ。
 そこで彼は話を終え、つがれた酒を飲んだ。

 仮にだが、もし自爆について話したとき、誰かに、
「あなた、それは死にたくないからそう言っているだけでしょう?」と指摘されたら、市は「はい、そうです。私は死にたくありません」と答えるしかない。それは紛れもない事実なのだから。そして彼はそれを他人にも適用し、「死なせたくない」と考えている。つまり市の「自爆するな」は戦闘上の要請(一人十殺)のためもあるが、素朴に「死なせたくない」からでもあった。

 だがそれを聞いた軍人たちはどう反応するか。多分予測はつかないし、また一様ではない。ただ、良からぬ反応が多いだろうとは、市でも想像がつく。
 たとえば上官が嵩にかかり、
「なんだ、貴様は死を恐れるただの卑怯者じゃないか」とののしることもあり得る。
——もしそうなったとき、おそらく市はこう言う。
「なるほど、そうおっしゃるからには、あなたは死を恐れないのですね。ならば私はあなたに決闘を申し込みます。搭乗員ならば空戦で決着を着けるべきです。もちろん、弾は実弾を込め、落下傘も着けず、どちらかが墜落するまでやります。“卑怯者”とおっしゃったからには責任を取っていただきます。受けていただけますね?」
 これを受ける上官はいないだろうし、受けても勝ち目はない。だが、もしも大勢の人間の面前だったら、上官はのっぴきならない立場に陥る。忖度のできない市ならやりかねず、そのことは上官たちも薄々分かっていた。こんなときに、九ノ泉ならば軍法会議を持ち出すだろうが、仮にも名誉を重んじる軍人であればそれはあり得ない。いずれにせよ碌なことにならないとは彼らも予測がつくだろう‥‥‥もちろん、このような言動が許されるはずもないのだが。

 少しこれに関連するが、市は軍人を見るといつもモヤモヤとする。それは絶対に譲れない根本原則として、彼がこう考えているからである。
「軍の本分は戦って勝つことである」
 従って、軍人の本分も勝つことなのだ。
 世の中を見渡すと、軍人に限らずこの原則が忘れられている気がする。
(死を恐れないというのは、確かに勝つための一つの手段になり得る。だけれど、あくまでそれは一つの手段であって、もし本当に死んでしまったらそれは負けなのだ‥‥‥)
 つまり市の哲学では、本来、軍人の本分は死ぬこととは別、あるいは無関係なのである。だが現実には作法や美学として、軍人と死は密接に絡まっていた。
(それがややこしくなる原因なんだ‥‥‥)
 もちろん、彼個人の力でそれを解きほぐすことなどできない。彼は末端の取るに足らない一士官に過ぎないからだ。もし彼にできることがあるとすれば、自らが自らの哲学を実践するぐらいのものだろう。
 彼は現実主義者である。
 彼が見据える、哲学を実践する(=勝つ)ためのただ一つの道とは。
(それは、俺が空戦名人として生き抜くことだ‥‥‥)
 そこには死などという概念はまったく存在しなかった。

 十月上旬から下旬にかけて、彼らの機動部隊はソロモン諸島の北東方で行動した。
 作戦は陸軍の飛行場総攻撃に連動しており、敵艦隊による増援や妨害の阻止が目的である。だが、機動部隊の主敵はあくまで敵の機動部隊であり、ガダルカナル島に対する航空攻撃は行わなかった。
 つまり、ガダルカナル戦の戦略で最も重要な(はずの)飛行場攻撃は二の次であった。
 それはミッドウェーの二の舞を恐れるからでもあった。同島の基地を攻撃している間に敵空母から横やりを喰らったら一大事だからだ。四空母を失った今、唯一の正規空母である『翔鶴』『瑞鶴』を敵空母以外に用いることはできなかった。

——その主敵との対決は、ちょうど陸軍の総攻撃が失敗に終わった十月下旬に起こった。
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